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11:39
この日記にはてなブックマークのRSSを讀み込んで表示する擴張を施さうとしたが、うまくいかなかつた(まあ、原因はわかつてゐるのだが、對處が樂さうでない)。
ところで、Y!のオークションに活版印刷の一式セットを最低價格五萬で募集してゐる。錦精社の活字ださうである。URIはブックマーク參照(おい)。
20:32
今朝の朝日に自民黨の新憲法案が出てゐたので讀んだのだが、まあ、宮崎哲也の言ふ「抑制的」といふのはまあ當つてゐるかなとは思ふが、いかにも自家撞著な印象を免れない。
自民黨のウェブサイトのサーバが非常に重いので引用はせずにやると、第一章が細かな移動のみ(ただ、内閣の地位が、前の憲法と比べて弱くなつてゐるやうに讀めなくもない)であり、第二章九條一項憲法前文のコピーのやうな謎文章に續けて、第二項、自衞が國際的でないといふのはどういふことだらうといふのはさて措き、第三項、國際紛爭を解決しようとする動きは當然國際的に協調して行はれる行動に内包されるのだから、そこに自衞軍と雖も軍隊が行つて「いかなる觀點からも」武威を示すのではないと誰がいへるのか。第一項に反してゐないと言ひ張るのは虚勢である。これは九條の二(現行との對照のための暫定措置であるから、まあ、きちんとまとめたときにはまともになつてゐるのでせう)二項にもあてはまる。
第三章十二條一項は無意味且つ最惡の改惡。十八條二項も分ける必要性が見當たらない。過剩な改正。二十條三項、社會的儀禮の範圍内であれば、宗教を強制していいとなり前項に矛盾。公務員及び被教育者、教育者は、宗教を問はれないのだから、もしその信條が社會的儀禮とかなんやらでの行爲と反してゐる場合、どうせよといふのだ。また、宗教の基本單位は個人であつて法人は人にあらざるものなのだから、行爲主體になれるわけがないやね。
ここら邊まで讀んで、果たして意味がある改正なのかわからなくなつた(しかも衆院解散は首相に一任とか言ふ意味不明)ので、やめる。
12:19
どうにも付點が矢鱈大きい。びつくりしたよ。m118の症状だが、起動して初囘保存時に、
Error loading BASIC of Document file:///略/share/basic/FormWizard/script.xlb/: General Error. General Input/Output Error.Error loading BASIC of Document file:///略/share/basic/FormWizard/dialog.xlb/: General Error. General Input/Output Error.
といふ二つのエラー(ただし問題はないやうである)が必ず出る。あと、テンプレートから文書を作り、もとのテンプレートを變更したときに、變更を適用するかといふのをYesを選んだのにも關はらず次囘以降も聞いてくる(Noを選ぶと聞いてこなくなる)。
しかしこんな場所でいふなんて非效率なことだが(でもどこに言へば)。
00:45
先日讀んだ言葉が心に殘る(うろ覺えなのではある)――「戰後になつて戰前は間違つてゐたとよくいはれるやうになつたが、しかし、さういへるほど我々は賢くなつたのか?」
明治のもの、昭和のものは、温故知新の對象とはしえないのは、温故しうるほどに「古く」ないものを、無理やり過去のものにしたからであり、温故知新の眞似事をしても上ツ面を撫でるだけなのである。
21:36
イワタ明朝體オールドの記號は、太さがミスマッチなのが氣になる。いい惡いはあちらに置いて、金井美惠子『小説論』(岩波書店)をもとにしてゝと々を作字。ただ、々はうまく作字できなくて、どうにも。所詮9pt大で、インクジェットで印刷するのだからそこまで氣にすることはない、とはわかるのだが。
20:39
全てのものは無價値、なのではなくて、ああでもないかうでもないの結果どれにも價値を認めなくなる。評價を禁止する。否定を禁止する。ただ肯定するのみ。どれもそのまま受け入れようとすること。どれも、などと分割することは出來ない。あるものをあるがまま受け入れるこころみ。
事實は小説より奇なりなどと格好をつけても。見えることしかわからない。見えないものはわからない。小説の世界を現實の世界と比べることはしようのないことだし、小説の世界で起きたことのほうが奇である人間のどんなに多いことか(ドン・キホーテといふ存在の唯一性。どんな意味においてもある物語そのものである「現實的」な存在とは?)。
ああ、またやつてしまふ。なぜ多彩な「小説」や「現實」を一つの言葉にくくることができるのか? その言葉にもれていつたものは? 付け加へられた餘計なものは?
かうして思考は沈默へと進み試行は失敗裡に終る。
18:11
書き了へてから、たいしたことがないものを大したものであるやうに振舞つてゐるのに氣づいて澑息をつく。けれども、否定を禁止するといふ試みは、しばらく續けようと思ふのだ。
扨、これから『一册の本』(朝日新聞社)の年間購讀の申し込みと金井美惠子の所謂目白四部作の内二作を本屋に買ひにいかう。こんなんだからお金が澑まらんのだなあ。
13:33
緑も押し付けがましい夏の盛りももう翳りを帶びてそれでも日は容赦がなくて雲に大方隱れても増幅された熱光線は絶え間なく地表を熱して暑いなかを、松戸週間は始まるのであつた。
ところで古本屋で本を讀んだくらゐで立ち讀みはご遠慮くださいと店員がいふのは氣分がいいものではない。立ち讀みをして讀みきつて買ふ本だつてあるのだ、といふか、さうでないと財布が持たない(特殊な個人的事情)。
23:16
ようよう涼しくなりけるなかに、歩き囘りもせで紀伊國屋書店にこもれば、『目白雜記』の殘り『舊かな入門』の消えたりを見つ。さらに讀みいけば、『徹底抗戰! 文士の森』とかいふ、文士なるとうに消えたる商ひを戀ふは哀れなれど、その中に書かれたる、あさましき目次に大塚某を輕蔑もする心地にぞなれる。
23:05
珍しく半袖で出かけたら、冷房にやられて外のベンチで二時間ほど療養して囘復。その間に古本屋に行きP.D.ジェームズ(早川の表記だとジェイムズなのだが、まあいい)『女の顔を覆え』『黒い塔』『罪なき血』(早川書房)を買ふ。百圓づつ。
家に歸ると、月刊の『一冊の本』(朝日新聞社)が屆いてゐて、讀む。まさかもしやこれはマティスとかいふやつですか、といふ感想はいいとして(確かめてない)、これで年間千圓、しかも送料は向かふ持ちといふのだから、これは隱しておいたほうがいい雜誌だ。ところで、2005年6月號90ページに橋本治を日本を代表する知性と書いてある新刊案内があつたのですが?
22:58
森茉莉の懷かしむ時代は特殊な時代であつたか。嫩者がゐた、と森は書く。移行時期にきちんとできなかつたら、そこの部分はなかなか對應できないものだが、まあ、パーツの問題ではないのだから、これこれがかういふ風に惡かつたといふのはいへないのだけど。
見識のない保守なんてただの依怙地の異稱に過ぎない。
自分の作品を讀んでをもしろいと思へるひとが羨ましいが、自分でも、とつぜん思ひうかんだものを急いで書いたものは自分で讀んで中々だ、といふことがままある。
P.D.ジェイムズ『黒い塔』(小泉喜美子譯、早川書房)讀了。岩田なのだが、印字がよくない。廣告ページはまともなので、寫植印字の問題かな。信毎書籍印刷。たとへば、ま、岩田では二畫目が三角形のやうだが、この本では最後の撥ねがのびきらない。
……て、それ丈ではなくて、ジェームズ節とかなんとやらだなあとか。意味不明。
『目白雜記』のジャケットの折返しに、本文組版金井久美子とあつて、それを金井美惠子と勘違ひして、やけに感心したものだつた。大日本。
23:34
やうやく長い松戸週間も終り、且つ樂しみ且つ退屈する、しかし前者をどうにかして優先したい日々がただ一囘の助言タイムを過ぎて始まる……のでせう。しかしよりによつて最後の日だけ雨に降られるとはねえ?
事項のほうが覺えやすいといふのは、なかなか理解しがたいことである。どう考へても人の流れのほうが面白いし覺えやすい。しかし、疑問符がつけられてゐることについて、さうなのだと斷言されると戸惑ふなあ。
23:07
二酸化炭素がオゾン層を破壞するので温暖化するのだと某K塾講師。
まへに、具體的な特徴を擧げて(昨日の、岩田の「ま」は二畫目が三角形のやうだ、のやうな)書體の見分け方を書いてみたが、大日本を「お」で見分けさせやうとして、「二(三?)画目の最後の払ひが、二画目を真下に下ろしきつた撥ねよりも高い位置にあるの」だとしたが、他にもさういふのがあつたのを後になつて思ひだすといふか氣づいた。脈絡が一番殘つてゐると書いたのだから、他のと間違へるとはあんまり考へないけれども、ただそこを見れば他と區別できるといふのでないのだから、あまりよろしくなかつた。
うーん、「に」が一筆で書かれてゐるのが一番樂な説明、か?
23:29
DNP 秀英体 秀英体のデザインに掲載されてゐる、秀英六號のかなが妙に岩田に似てゐるが(微妙に違ふ)、『秀英体研究』收載の大正3年の『活版見本帖』の六號とはかなり違ふ。大日本のウェブページでは大正9年の見本帳によるとしてあるが、六年でこんなに變はるのか、と云々。岩田のかなが開發されたのはいつなのだらう。
14:10
『神が一緒、と断定されると戸惑ふ。イスラムに三位一体ないやん?』はてなブックマーク - 思いて学ばざれば - 25日前のデイヴもそうだったのだ
とコメントに書いたものだが、ムスリムから見ればイエスも預言者の一人なのだから、神樣は同じでいいのだらう。クリスチャンから見れば、違ふ。
21:17
鹿島茂といふひとが『一冊の本』(朝日新聞社)に「ドーダの近代史」といふのを連載してゐて、私が購讀を始めた2005年6月號では、山本七平の分析を參考に、「太平洋戦争の問題のすべては、すでに西南戦争の中に露呈して」ゐると書く(鹿島茂「ドーダの近代史–陰ドーダの誕生(その十二)」『一冊の本』第10卷6號、朝日新聞社、2005)。
そしてそれは「それ(十五年戰爭:引用者註)を「陰ドーダ」の思考図式に基づく「革命」であったと見なすと、一から十まで理解可能になるのである」といふ(鹿島茂「ドーダの近代史–陰ドーダの誕生(その十三)」『一冊の本』第10卷7號、朝日新聞社、2005)。「陰ドーダ」とは、「物量において劣っていても、大義において正しければ、精神力一つで物量を凌駕できるし、たとえ敗れても勝ちだ」といふ「公式」である(引用前掲)。
面白い連載であると思ふので、朝日新聞に千圓くらゐ送ると雜誌が送られてくるから(一年にわたつて!)、まあ、本にまとまるならそれでもいいが、讀んでみてください。
22:51
2004 JIS をめぐる混乱といふページを教へてもらつたのだが、なんだかよくわからない。ただ、少し2000JIS關係のページを見て廻つただけなので、その疑問を深く掘り下げることが出來ないのだが。
ここがよくわからなかつた(えらそうに書いてあるが、あまり檢證をしてゐないので、勘違ひが多く豫想される。dt要素で圍まれた部分が上記ページからの引用である)。
檢證もしないで更新しようかとも思ひましたが、流石に一通りの確認は取つたつもりです。
23:49
「後ろは前に併せて」「ぢやあ、2.5cmほど……」
そんなに細かくなくて良いです。髮を切るのは一大事、ほんに(三ヶ月に一囘しか行かない所爲もあり)。
18:34
と書いて、自己の行爲について去來することが少なからずあつたが、さうではなくて、今囘の芥川龍之介賞の選評を見て、さう思つたのである。
芥川賞は特殊な賞である。なんで受賞者から銓衡者を選ばねばならぬのだらうか。なぜ受賞作を出すかどうかで議論せねばならないのか。前者は全ての賞銓衡全部にいへることだが、後者は、「今囘もまた」と云つた趣で、成程「文藝の衰退」を殊更云ふ輩もをるらんとは思ひつつ(賞の下讀みの質が下がつてるだけでないの?とか芥川賞受賞者が今まで書いてきたやうな、或は芥川賞を受賞するに足るべき資質が備はる、との賞關係者が信ずる概念に沿つた作品が減つてゐるだけではないの?とは思ふ)、結局受賞作をよいとするのは黒井千次一人で、愼太郎は三角といつた所、他は軒竝み受賞作なしにでもしたいやうな雰圍氣であつた。池澤夏樹などは、「小説には他者が必要だと勉強した」なる旨書くし、なんのための銓衡だとはあんまり思はないのだが、芥川賞を過去に受賞した人で、いい物を出してゐるひとも、この現在の賞の濫發の煽りで、芥川賞受賞を理由に敬遠されたら、とつても哀しいことであると思ふのであつた。
21:42
勞働者を甘やかす、と他國(和蘭)の勞働事情を傳へる記事に忍び込ませるのはいかがなんでせうか、讀賣新聞さん。
23:43
極まり切つたことをできず、恥を振りまいてゐた方面ではやうやく自分が何をしてゐるのかわかりはじめた氣分になり、しかし根氣が足りず人に結局頼るのだが(そしてもう相手にされない時分なのだが)、落著きがあるのではなくてただ表情に出ないだけである私は、結局悟つた風にしてゐるしかない氣がする今現在。といふか頼つてるみなさますいませんありがたうございます(誰に)。といふかこんなことしか書くことがない何もしなかつた一日。ORADANO、最新版を眺めてゐて、ゞと々のアウトラインを見比べていろいろ思ひつつ、漢字がああなら、かなもスキャンしたそのままでいいんでないかなあ、とか(といふか復刻作業をするほうとしてはそのほうがやりやすいとかなんとか)、kgの記號で、gのアウトライン重複が處理されてないなあとか(その後非漢字グリフを全部見たら、g單體でないのは全部さうであるやう)、ミリなどの單位のグリフは舊いORADANOのかなで、イワタ明朝體オールドみたいだなとか、古いのに比べて増えただけでなくて減つてゐるものもあるんだなあとか、下衆なことを考へた。ゆとβがかはつて(替る、變る)ゐるのを確認しました。あと、今更なんなのですが、ωにも變なアウトラインが混ぢつてゐました……。これもどうでもいいことですが、ダーシに罫線類が假想ボディをはみ出してますね。中心からずれたものもある模樣です。
21:30
「旅路のはての空まで、つつがなく!」(J.R.R. Talkin、瀬田貞二譯、岩波書店)
遠い異國にあなたが赴くのは、さびしく不思議なことです。殘された人々と、あなたとの間には、遠い昔モンゴル帝國の早馬たちが驅けた道があるのではありませんか? たぶん、その道は通らないけれど、繩文人が海を渡り西に渡つたとさへ夢想するひとがゐる海を超え、さまざまな欲望が、結局自然を二囘殺した大陸を超え、慾と斷絶とが交はされた海を超え、さうしていくらにも中繼されて屆いた、幸い電子の藻屑にはなりはてなかつた運び屋たちは、モンゴルの早馬より早く私たちの間を行き來し、距離を幻想的に無限小にしてゐます。だから、私はさびしく不思議なのです。昔、ある詩人は東京といふ新都と阿武隈を隔ててさへ遠い、と思つたものはなんだつたのだらうと、あなたのことを離れて考へてしまひます。
それでもさあ! あなたは遠い所へ行くのだから、私はあなたの道々の幸運をその地に住まふ奧深きものたちが許すことを願はう。そして、あなたを迎へた土地に住まふものたちがあなたを受け入れ、よき客人としてもてなし、あなたの歸り路を幸多きものにしてくれるやう祈らう! 私は明日見送ることはしないけれど――行つてらつしやい!
21:24
こんな、支配階級と被支配階級の時代の用語を引き摺りだす時點で、その論は見る價値がないのかもしれないが、某が「政府に出來て民間に出來ないのは失禮だ」といふ民間は、一人一人ではなく、また、ゆるやかな地域の統合體(縣などの公共團體、とは違ふ、文化圈)でもなく、ただの大企業であり大資本家であるからには、郵便を一人でまかなふことのできぬ一人一人は、某はサラリーマンは税を取る量が少ないと云つて憚らない某評論家を雇ふてをりしかも搾取といふ形容の似合ふこの事業を平氣でやらうとしてゐるのだし、黄色い聲を出してゐる暇はないのだと、思ふ(サラリーマン増税。農奴化とは言はずとも)。
22:47
正字、といふとまづ想起されるらしい戰前の漢字遣ひは、我々から(たとへ正字主義者であつてさへ)失はれて久しいのだから、それについて何かをいひたいのであれば、それらの時代の文字状況を知つてゐなければ、話を聞くに値しない。最低限の智識として、『明朝體活字字形一覽』や『聚珍録』の資料を總覽しないことには、「野蠻な温故知新」を呼び起こすだけである。
「所謂」康煕字典體は康煕字典に拘束された規範であり、白川氏のいふ正字は甲骨文字や金文に拘束された規範である。戰後は當用漢字表或は常用漢字表であるが、戰前は、といふと實に多樣な規範意識があつたとしか、今の私にはいへないのであるが、少なくとも、單字置き換へで濟む状況は全く存在しなかつたのに、それで濟むと考へる人間のなんと多いことか。
今の自分を否定して、するのは勝手だが、その間に生まれた空ろをしかし彼らはどうする積りであるのだらう。
20:40
まだ殘つてゐるかしらん。
14:16
フロベール『ボヴァリー夫人』(村上菊一郎譯、角川書店<角川文庫>、1950、再版)を、水曜あたりに買つたのだが、角川文庫からは落ちてゐる模樣。帶はモーリヤックの『愛の砂漠』に『テレーズ・デスケイルウ』、マーク・トウェインの『トム・ソーヤーの冒險』などが見える。東洋印刷。岩田と晃文堂が混ぢつてゐる。大日本や、築地の細くしたのさへ混ぢつてゐるか? いや、私がわからんだけか。――「彼女はもう死んでいた! 何とまあ!」
22:04
眠いけど眠らないうちに、目が覺めた氣になつたあと。緊張が高まつて氣の動轉が治まつたとき。つまり、心のざわつきどころでなくなつたときといふことか。或はいろいろなものに手をだせないときかもしれない。テストとか。分析してゐるひまがあるなら汝の爲すべき事を爲せですか(違。
20:53
なぜか駒大苫小牧の優勝の分のほぼ日特集を見て泣く。序でに朝刊の一面で泣く。謎。さういふ時期なのかもしれない。
そして今。ORADANOの新しい「ゆ」(この形は確か後期)を見て惚れ惚れしたあと(「ゆ」は後期も前期も惚れ惚れするほど美しい。そして、前期後期の違ひが、あまりないのも特徴だらう)、味岡かなの築地の「ゆ」をMulti-bitsで見たら、本物の美しさが臺無しなので泣けた。
23:23
當用漢字、常用漢字も、實は、正字の體系の一つに他ならない。かう書けば正しいとするのが正字であり、その點において平頭通さんの仰る代表的な字体異体字対正字
といふのと、著目點で同一なのである。正字も參照されたい。
字形は、書體とその字を書く場面に依存してゐる。そのときにあるのは、その字形を一つにまとめる捨象の仕方であり、この場合字體といふのは限りなく具體的な形を持たない。對して、代表しうる字體があつて、それから字形が求められるのだ、といふのは、當用漢字や常用漢字、または、所謂康煕字典體、唐代の開成石經などの科擧標準字形、または、甲骨文字、金文や大篆から導かれた字形を根據にしなければ成り立たない。そして、そこには傳統といふ概念はないのだから、一對一の關係のみが成立し、異體字は特例的に生き殘ることができるのである。しかし、前者では異體字といふ概念は成立せず、ただ實裝の違ひのみがある。
JIS X 0213がいま使はれてゐる日本語を符號化するにはどうしたらいいか、といふ發想で起草されたからには、この兩者の中間を行くしかない。實裝するほうの問題だといふのは、むしろ卑怯でもなんでもなく、當然の姿なのではないか? 舊字だの正字だのも一つのコードしか與へないで、Adobe-Japan1-5 のやうな、グリフアクセスを勘案することで對處する、といふのが、要するに一番望ましいのではないか、といふことである。
13:04
スペイン領メキシコで初めて活字印刷を行つた人物に、Juan Pablosなる人物がをるさうなのだけど、スペイン人なのかイタリア人なのかよくわからない。Juan Pablosならスペイン名なのだらうが、イタリア人だつたらGiovanni Paoloといふ名前がネイティブであらう。コロンブスみたいなものなのだらうか。イタリア人なんてありえない、と斷言できないあたりややこしい(日本語のウェブページだと、Juanの出生はイタリアとするところしかなく(手持ちの本にはでてゐない)、英語のページだと、spanish printerとのみするページも多いが、出生はどの地方と明示するのは、イタリア出生説のページのみなのである。だから、イタリア生まれかも知らんなあといふ思ひはあるが)。ところで、pablosはイタリア語でpaoloでいいんですか?
22:51
小宮山さんや片塩さんはMotogiと言ひ(小宮山さんは本木家オランダ文書の自筆サインは「Motogi」となっていますので、「もとぎ」と濁るのが正しいと思われます。もじくみ仮名書体について
と書き、片塩さんはどこだつたか忘れたが、印刷博物館の「活字文明開化」展での本木のローマ字表記がMotogiであることを嬉しがつてゐた)、しかし『活字文明開化–本木昌造が築いた近代』(印刷博物館、2003)に掲載されてゐる、「本木昌造を生み出した長崎通詞の世界」(杉本つとむ、p.41)の註では、「本木家の読みにはモトキとモトギの両者があるが、幕末嘉永元(千八百四十八)年、長崎に保護されたR・マクドナルドの著書“Japan / story of Adventure”に、彼から英語を習った一人、Motoke Sayemonの名がみえる。これは正栄の子にあたる本木昌左衛門と思われるので、本木はモトキとよばれていた証拠になる」とあり、どちらも本木家のローマ字表記に據つてをり、長崎通詞の資料を讀んだ事のない身としては、わからないーといふよりない。
22:23
平頭通さんの異体字対正字の平成十七年八月廿三日分への反應です。明示のない引用は上記URIからの引用です。正字(2)も併せて御覽ください。
「例示字体は所謂康煕字典体で統一するのが望ましいでせう。」
例示字體を明朝體でしようといふなら所謂康煕字典體によるが現状に近からうと思ひます。ただ、當用漢字は明朝で示されてはをらず、そこが瑕疵ですが。TONAN's WEBをご覽ください。Double Standardについてはコメントしません。腐つてゐると云ひ度いなら言ふのも勝手なのですが(腐り始めたあとに生まれた人が腐つてゐると云つてもゾンビがゾンビを指して腐つてゐるといふのと殆ど同じなのですし)、六十年間の運用が確かにあつたのです。その意味で97JISの委員會の姿勢は、復權派のかたがたは大いに玩味すべきなのでせう。
「私の意見は、様々な書体を念頭においた上で、漢字の字形に拘るよりも、字音や字訓や字義や使用状況などの概念を優先させる事を中心に考へてゐます。」
うーん、文字コードで重要なのは「同定」であり、そのために「字音」だの「字義」だのを供するのが適當であるやうな。中世のjとiみたいなものでせうか(謎。後始末のやうな文章なので、力が入りません)。
こんなものでせうか。文字といふものは、通曉しないといけないものが多すぎて、素人考へをだらだら書くのは成る丈早く終らしたいのです。
ああ、ところでkarpa、といふのははてなのIDであつて、私のハンドルではありません。經緯は省きますが、kaz或はkzhrが私のハンドルであり、karpaは私の運營するサイトの一名稱なのです。
22:58
しました。あ、文章は、と限定する意味はないか。
23:46
字通に曰く旧字は覽に作り、監(かん)+見。監は鑑の初文で、監は水盥(みずたらい)(皿)の上に顔を出して面を映す形。その映る面を見ることを覽という『CD-ROM版 字通』(白河静、平凡社、2003)
。字音はらん。
どうして覽のみ新舊の別があるのかと前から氣になつてはゐたが、かういふわけだつたらしい。
拾遺。『聚珍録』本文歐文書體はBembo。Granjonはいづこに? 引用(といふか轉載)で、著作權の切れてゐるものといふのは、それが記載されてゐるものの著作權を氣にする必要があるのだらうか。特に圖や寫眞など。『聚珍録』の圖は缺けがあつたりして、別の用に使ふにはあまり向かないが、『秀英体研究』なら耐える、と思ふのであるが。
19:43
併せる假名の選擇がをかしいですがまあ(まあではない)。採取したのは竹葉舎晋升『敵討高田馬場』(發行(大阪)中村芳松、印刷(大阪)大垣彌太郎、發賣(大阪)競爭屋 鍾美堂、1893)より。本文の頭が87ページから始まるとかいふ謎の本。江川行書が似合ふ題字ですね。併せる必要はないけれど。
18:28
下の畫像、攵なのか欠なのか。それで、といふのでもありませんが、今日本屋に行つて辭書の棚を見ましたら、府川さんの『難讀語辭典』(太田出版)があつたので早速立讀みしました(えー)。序と凡例だけ見て苦笑してをりました。帶の文句で謳はれた對象讀者であの文章がわかる人間がいくらをるのやら。
扨、同じ棚の段には三省堂の『解説字體辭典』(江守賢治、1998)が置いてありました。興味深い内容でしたが、ただ、楷書を明朝で再現しようとする誤謬にこの人も陷つてゐるのが不思議でした。同書店で『アイデア』の312號も讀みましたが、レイアウトが入替り立替りでなんだか不思議でした。しかし、府川さんのお宅は地震があつたらどうなるんだらうと冷や冷やするやうな作業場ですね……。
でしたばつかり。
20:52
梅原猛が「梅原日本學」と呼ばれて「折口民俗學」だのと比して喜んでゐたが、おだてに弱いなあと思ふのは、誰々の何々學といふ呼稱は、その人の説が「特殊な」學説で、(我々)正統派と區別して置かう、といふ意圖を感じるからなのだが、穿つた見方なのだらうか。
一と昔に話題になつた『ラブ&ボディBook』とやらを反對派のサイトで見たのだが、極めて穩當な内容だと感じたのはなぜだらう。そのサイトを眺めていくと、小學生に教へてもわかつてもらへないで、「貞操派」を勢ひづかせるだけではないかと強く思はせるのもの([1]、[2])もあつたのだが。といふか、小二のときの教室に[2]のやうな本があつて、「エロいー」だの云はれてゐただけだつたから、事實さうなのだらう。
23:15
26日分敵を討つにて、府川さんより「六号だとするとちと細すぎないで」はないかと指摘を受けまして、元資料と重ね合せて見ました。見本は「を」。1200dpiの、まあ安物のスキャナで入力したもので、『秀英體研究』掲載の『活版見本』(1903)の「六號假名書體見本」が資料です。コピー資料が元なので氣が引けますが。左から、スキャンした畫像を一定サイズの正方形に納めたもの、アウトライン化したもの、左の二つの畫像を重ね合せたものです。
指摘されて、これは細すぎか、と思ふ部分と、こんなもんだよなあと思ふ部分と。太い部分が細すぎるかもしれません。
17:40
フレームを使ふと、その擧動の意味不明さに惱む。PDF出力で、Type1のフォントを指定したら別のTrueTypeフォントに勝手に變へられる。 Swiss 721をArialにするのはまだわからんでもないが、ZurichをNewsGothicMTにするといふのはどういふエンジンなんだか。しかも Type1からTruetypeに入れ替へても直らないし。
14:39
ルビを入れてまともな組版をするには、Edit Paragraph Styleから行間をFixedにする。追出しで組むと、」!っなど餘計なものも追出すので、文章を調節できるなら書き直して工面する(待て)。ボックスを配置するときは、Entire Pageでできるならさうしたほうが樂。PDF出力では無理やりフォントを埋め込まうとするくせに、Truetypeしか埋め込めないやうなので注意する(何)。しかし畫像にして出力しても印刷すると灰色がうつすら出る(死)。見たところTimes New Roman, Arial, NewsGothicMTなどを埋め込みたがる。和文だとMS明朝。使つてないはづなのにPDFの文書のプロパティにはMS-Minchoとあつて何がいけないのかわからなくて惱まないこと。一文字だけ書體を變へてゐたりするとたまにあるぞ。字間調整がうまくいかないので、散文で四分アキの組版はできません。といふか、句讀點が。
今囘Bitstreamが駄目、Monotype Garamondは好きだけど氣が進まない、でefont serifを遣ひましたが、本文サイズだとSlab Serifみたいな感じで、難しい書體だなと思ひました。
20:35
田舍と都市部の丁度いい眞ん中に住まつて(と思つてゐるのだが、都會と田舍とで兩方から異論が出てきさうな氣もする)、家の中が靜まると、この時期は蟲の音ばかり聞こえる。初夏に鳴きはじめ、盛夏は默り、八月の半ば頃からか、再び鳴きはじめる。リーリーだかキーキーだか殆ど一樣に響き渡るのだが、耳を澄ますとときをりコロコロ鳴くのもをり、夜更かしで机に向かひ作業して、やうやく心定まり集中する體に心地よく染み渡るものだ。
21:21
遠藤周作の『沈默』に、聖書から上記の句が引かれてゐるのですが、一寸遣はうと思つて出典を探してゐるのですが、どこだかわかりません(聖書のほうも沈默のほうも)。マタイによる福音書26:50かヨハネによる福音書13:27で、後者のほうだと思ふのですが、欽定譯だと"And after the sop Satan entered into him. Then said Jesus unto him, That thou doest, do quickly."とあり、「行きて」の部分がどうにも見當たらない。ただ、前者だとなぜお前がをるのだ、といふ意味の氣がする(聖書教會の譯もさうなつてゐる)。なぞ。
ところで、この句はイエスがユダへと投げかけた句として知られてをりますが、聖書を借りた本棚に『新約聖書物語』といふのがあつて、これは昨日讀んだ『スイスジョーク集』の見出しに『舊約聖書物語』の句が遣はれてゐるといふので謝辭があつたので、昨日は時間が無かつたけれども今日は見ようと思つて見たら、「お前のすることをせよ」と云つたのは、ユダにパンを與へた後で、さうするとマタイ26:50は位置がをかしいといふので調べなおしたのが上なのですが、そのほかに、『沈默』のやうに、ユダについて考察してあるのを見て、ほう、と思つたのでした。『沈默』、『新約』ともに、ユダが裏切り者と呼ばれる一般的理由、銀三十枚を否定してをります。それをいふならペトロとて。そこからの解釋が違ひます。『沈默』では、ユダもまた痛みを負つて、「キリストと同じやうに死んだのだ」(引用ではありません)といひます。對して、『新約』では、ペトロはイエスを裏切つたことについて泣き、再び神を見出した、だがユダは絶望して死んだ、この神を見失つたまま死んだといふのは罪であり、裏切りなのだ、といふのです。これは實に興味深い見方でありました。
ところで、
Quod Facis Fac Citius(Ioannem 13:27)
Amice Ad Quod Venisti(Matthaeum 26:50)
をUniversで、文句を14 DTPpt、引用元を12 DTPptでやつて、アウトライン化したものをEPSでどなたか送つてくださいませんか。序でに「汝」「爲」のヒラギノのウェイト8のアウトラインも付けていただけると幸ひ。こちらは18 DTPptにて^^;
20:27
今度は、「あ」で。
22:24
——貪欲と嫌惡と迷妄とを捨て、結び目を破り、命を失ふのを恐れることなく、犀の角のやうにただ獨り歩め
(中村元譯『ブッダの言葉 スッタニパータ』74詩、岩波書店、1984)
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