ある個人に業界史をお聞きするときは、そのかたの個人史をつねに業界史のなかで位置づけしながら聞かなければ迷ふ。
たとへて言はく、あるたびびとが述懷していふやう、「わが家では、朝には食パンのトーストを食べたものでした」。もし、この發言をその地域の食生活について尋ねてゐる文脈としたら、これだけでその地域について知ったものとするのは不足であることおびただしいのは明白であるが、しかし、この地域はパン食だと知ってゐれば滿足してしまふかもしれない;パン食はパン食でも、食パンをトーストをするのはこのひとの家だけだったり、このひとの所屬する集團だけで、となりの家ではさうではないことだって當然あるのだから、それがあり得方なのではなく、あり方だと思はないやうにしなければならない。
迷ふ、といふのは、かたよった歴史しか考へないといふことであり、それは、あり得方を十全に心得てゐないことを示す。個人史を聞きながら業界史を想ふのであれば、業界史のなかで、ある個人史がそのやうにあり得たことを考へなければならない。
昨日もじもじカフェで伺ったおはなしは、そのやうな點で、活版の時代のなにを教へられたのだらうかと反芻してゐる。
16:11
——貪欲と嫌惡と迷妄とを捨て、結び目を破り、命を失ふのを恐れることなく、犀の角のやうにただ獨り歩め
(中村元譯『ブッダの言葉 スッタニパータ』74詩、岩波書店、1984)
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