以前、Fontforgeのマニュアルの翻譯について話題にしたことがあつたが、Fontforgeを使つてみようと思ひ、いろいろなサイトをめぐつてゐるうちに、狩野さんがこれを見て、譯を變へたことを知つた。常套句か否かはこの際問題ではなく、「しますた」の語感がラテン語とはあはない(平安語の話を持ち出したのはこのためであつたと思ふ)、といふ勝手な困惑であつたと記憶する。いづれにせよ、お手を煩はせてしまひ、すいませんでした。
で、Fontforgeのはうなのだが、とりあへずUIを日本語にできたまではよかつたが、Cygwinの日本語周りやウィンドウマネージャー周りをいぢつてゐるうちに、Xが立ち上がらなくなつてしまつた。お手上げである(二度目)。
P.S. Scaleの譯語は縮尺とするが良いかと存じますが、いかがでせう。
23:19
さらに修正。現配布バージョンと、041227版と比較してみませう。
: 2005/01/03版
: 2004/12/27版
: v0.1.2004.06.24(2003.11.01)
22:26
青空文庫で「著作権保護期間の70年延長に反対する(そらもよう)」といふ文書が公開された。確かに、死後の保護なんて生きてゐる人間には關係の無い話であるし、企業にしたつて、いつまでも過去の作品の食ひ扶持で生きていくわけにもいかないのであるから、70年などといふ不必要な保護を求めないのが得策であらう。
23:43
著作權を伸ばして、利益を得る人と、損害を蒙る人とを考へてみよう。
利益を得る人。昔のものを食ひ扶持に生計を立ててゐる企業。
損害を蒙る人。著作權の繼承がはつきりしなくて、見る人がゐながら作品を世に送り出せない死んだ作者。著作權が切れることで自由に作品を使へるのを先延ばしにされた「社會」。
自由に使へることの意義について、われわれはどの程度かんがへてゐるだらう? 世界はオリジナルだけであつたら味氣がないのだ。もつと互いにやりあひたまへ(「人生に相渉るとは何の謂ぞ」など忘れてしまへ、あんなの)。
著作權は著作者(個人)の死後、基本的に遺族に移る。彼等が生きていくために必要だ――との意見。しかし、遺族は所詮遺族で、トールキン關連など、權利關係が複雜すぎのうへに、テングワールなどの美しい文字は、なんと、彼等に許可をもらはねば勝手にウェブで使ふこともできない(幸ひにも許可を得たフォントが公開してあるので個人としては使ふことができるが、しかし、商賣などには使へない。ただの文字ではないか。文字を書くのに許可がいる不思議を考へたまへ。文字を作るにもお金がかかる印刷ではないのだ)。音樂のコピーにしろ、さうなのである。違法だつたコピーが著作權が切れれば違法でなくなるが(違法だつた時分が打ち消されるわけではない)、伸びれば、いつまでも違法である(そりや、いつかは切れるはずだが、アメリカではミッキーマウスの著作權がいつまでも切れない)。少しミッキーの形が入つただけでディズニーは訴へるといふ。狂つてゐるとしかいひやうがない。文藝はどうか。パロディーは著作權侵害である。また、二次創作も基本的に危ないだらう。結局、どの分野も創作に携はるかぎり、危ないと覺えておくのが基本である。
著作權の延長は自由の制限につながる。それも不當な(何囘もいふとほり、70年は長すぎる)。そんな法案は廢案にしてもらはねば、困る。困るから、今かうして抗議文を書いてゐる。
23:01
M+のMLに入る。狩野さんがいらつしやるので私の出番はないと斷言できるが、とりあへず思ふには、そもそも古い人間(死)なのでモダーンなのは好みでないのは措いて、「四角志向」だなあ、といふこと。今白川先生の本を讀んでゐて卜文の世界に誘なはれてゐるので(4月のカレンダーがとてもとても素敵なのだ。狂つてしまはうかとも思ふ(謎))、この神との契りを示す文字の動きに、四角は合はないと強く思ふ。いや、神は失はれてゐるので今も字を書くときも神に捧げてゐるかといふと違ふのであるけれど。私が活字の和字書體で好きなのは築地の後期三號系である。これらは四角に收まるどころではないやうであるが、しかし、四角い活字の面に彫られてゐるのである。活字としての完成度は三號に讓るけれど、造形の美しさは一號が一番だと思つてゐる。上代からの筆脈と、小宮山さんもお書きになつた、「四角のなかに押し込めること」とをうまく兩立させてゐるやうに思へるためである。これらをうまくあけて組んだら一日惚けてゐられる氣がする。云ひ過ぎか。そもそも、四角志向だとプロポーショナル設定が(フォント製作者として(蹴))非常につまらないと思ふのだが、しかし、これはこの分の中にあつても相當勝手な主張なので聞き流されたい。
閑話休題。整理されるとは、四角のなかに文字を押し込めることなのだらうか。自分自身復古主義者に陷りさうになつてゐる現状に氣がついてゐるが、それでも、疑問に思ふのが、漢字と和字が合はないのを和字を漢字に近づけることで解決がつくのか、といふことである。わからなくなる一方であるので此れにて話を擱く。
23:40
何氣なしに近代デジタルライブラリの「言文一致會の會誌」を見れば、新年の挨拶を、新年おめでたう、と明治33年11月15日の例會で決めた、とある。外にも新村出、大槻文彦の名が出てゐたりする。明治期の活動の雰圍氣を感じさせる。
13:58
ーを横書きで書く場合、普通、筆押さへを上にしますが、縱書きしか考へられなかつた明治期の活字の場合、ーの活字を丁度-90°にして置いてゐたさうです。なので、築竹假名でも驗しに-90°でつくつてみましたが、いかがでせうか。
21:22
けふは築地五號を數文字採取してディジタルフォントに覆刻してをりましたが。一字に4時間かかるのは常用漢字部分制霸(常用漢字の字體をトレースするわけではないので)だけで四年くらゐかかりますね。非效率の窮みだなあ、と思ひつつ毎囘必要分だけ覆刻するのでした。期日は日曜!
23:12
TVで頭がいい人の話し方とかの樋口何とかといふ人が話してゐたが、要するにあれは素直に生きる方法を傳授してゐるだけではなからうか。ネタがないので日常で思つた勝手なことを述べてみる。
ところで明後日締め切りらしいです終りませんどうしませう3年生センター明けで書けるのでせうか。
20:56
小宮山氏連載に府川氏の名前が出てゐて(書体の覆刻「タイポグラフィの世界 書体編」の下のはうの前期五號の書體見本のPDFの註6)、見てみたら、「今年三月に長年の書体史研究の集大成とも言うべき三〇〇〇頁におよぶ大著『珍聚録』を三省堂より刊行する。」
……恐ろしい人だなあと再認識。
21:21
コンピュータ畫面の黒には深みがない
何もかもを捕らへて
何もかもを奈落に突き落とすかのやうな
深み。
所詮、
光を遮蔽して現された黒には
その裏に光を隱してゐるので
あるいは
その裏の光を隱し切れないでゐるので
あの奈落が
そもそも存在してゐないのであらうか。
黒に取り込まれる
虞がないのは少々
氣樂かも知れない
23:08
けふセブンイレブンに行きてあま菓子を求めけり。しろをさづくに、店員「商品を袋にお入れなさいますか」といひけり。これ「…圓からお預かりいたします」などよりもはなはだ惡し。あに我が購ひしものをば我は袋に入れさせらるるや。解しがたきことなり。
23:18
23:21
v0.1.2005.01.23を出しました。當世風がv0.2なのを考へれば變なバージョンではあるけれど。當世風のv0.1→v0.2よりも變更は多いし。「ゆ」はとりあへず現行のままで。カタカナはこれでひらがなのレベルになつたのではないか。僭越ではあるが、このバージョンでやうやく實用になつたと自負してゐる(吉都次期バージョンでもかう言ふのだ)。
23:36
開發するとしたら、Opentypeで字形切替へなどをしてみたいが、OTEditは買ふ氣が起きないし、Fontforgeはうまく使へない。 TTEditのトレース機能は使ひものにならないのでExpression3Jで編輯しても、ビットマップ出力してトレースしなほさなければならないのは面倒だ(ところでTTEditはいつになつたら編輯機能が強化されるの?)。闇雲に追加する氣もしないが、でも當面は闇雲にするほかないか。しかし、ゴシックへの變形を巡つて異論がでるかもしらん。さうしたらTruetypeでは對應しきれないだらうから、Opentypeに移るほかあるまい。以下略以下略。
23:34
——貪欲と嫌惡と迷妄とを捨て、結び目を破り、命を失ふのを恐れることなく、犀の角のやうにただ獨り歩め
(中村元譯『ブッダの言葉 スッタニパータ』74詩、岩波書店、1984)
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