なんと、今日が9/1。9/2だと思つてた。
伊藤幸作『<デザイン技法シリーズ5>タイポグラフィ』(ダヴィッド、1971)を藉りる。色々な活字業者、岩橋や光文堂などは見たことがないので參考になる(いや、藉りたのは二度目なのですが)。「本作りの経済性の故に人間工学上の視覚的な配慮は行われず、ベタ組と称するこのような(改行のない――引用者註)組版が慣習化されている。(p.136)」とかいふのはどうかと思ふ。(恐らく)對處として著者が掲げるのは、ラグ組といふより寧ろ我々が「詩」と認識する「散文よりも短い行の長さ、意味による改行といった版面にあらわれた「すがたかたち」(鈴木広光「空白の中の残影――明治文芸の版面(1)」『d/SIGN』8號、太田出版、2004)」に相當するもので、アイデア312號のタイポグラフィ教習とかいふ連載のラグ組にさへ違和感を覺える私にしてみれば、讀みにくい讀みにくいと「人間工學」樣が文章を分斷し、もはや異物と化したものを讀まされるに等しく、反吐が出る。そんな理由で改行を少なくした人なんて聞いたことがない。支離滅裂な言ひがかりだ。
歴史的な事項についても、グーテンベルグの42行聖書に「人間性の復活を希求する時代の動き」などと記すに代表される「?」はつきまとふが、タイポグラフィの語義を正しく認識してゐるだけでも參考になるといへる。でも日本語の文字を「矛盾に満ちた国字 (p.24)」などといふのは、勘辯願ひたいところだが。p.39に掲載された“レタリングによる”秀英舍初號と現代の活字(不明)の三十倍の「湖」もどうかと思ふが。
21:06
どうせ自民黨が政權を維持するのには疑ひがないのだし、それならどう變はるかと云つてゐるかを見ないのは、後々困りもするだらうといふことで、見る氣になつたのである。
ウェブサイトの構成は最低と云つてよろしいが、當方何かを期待して見に來てをるわけではないのでかまはない。『郵政解散――皆さんの疑問に答えます!』の、十の疑問。小さな政府は是で、大きな政府は駄目、ですか。その割には地方分權が……(略)。千葉二區で「大船橋市」構想を訴へる無所屬がをりましたが、それで政令指定都市にして、分權を進めるさうです。んな阿呆な。話題がそれました、官主導をやめるためには……官を一旦チャラにしたらよござんせう。小さな政府で解決する問題ではありませんね。ところで、彼は郵政を民營化して、「誰」の經營にゆだねたいのか、寡聞にして知りません。誰か教へてくださいな。
サラリーマン増税、政府税調に自民黨が反對、つて、變な構圖だこと。
民營化、といふのは、呼稱として聊かの咀嚼不良とも思へなくもないのだが、通稱どほりに用ゐると、それをした後に、地方の郵便局が減るかといふと、顧客が地方を理由に配達が遲延するのを認めるなら減るだらうな、と思ふのであつた。
21:51
昨日の本(伊藤幸作『タイポグラフィ』)のp.40は全體的に謎。著作權と、各社の書體に「バラつき」があるのは全くの別問題。やつぱり、駄目な本かもしれない。
假名書體を作つてゐて、どの字が一番難しいか、といふと、縮尺するだけといふお粗末な處理しかしない小書き假名なら簡單だ、とは言へるが、難しいといふのは、どれも今の私には難しいのであつて、しかし極めるために、調整に時間が掛かる文字、といふ觀點からいくと、「あ」は最も難しい字の一つと云つてよいのだとは思ふ。「え」や「お」、「な」なんかも難しい字だ。「ひ」も難しいと感じる。
「あ」が難しいのは、十字にまとふ「の」の字、といふのが難しいのだ、と思ふ。おまけにこの「の」の字ときたら、意地の惡い楕圓なのだ。だからこそ、岩田明朝體の「イワタ明朝體オールド」の「あ」でないほうの「あ」をよいと思ふのだが。「え」は、點を撥ねてくつと引き、折り返した伸び、そこから彈むやうに描く放物線のバランスが、うまく極まらない。「お」は、縱にすうとおろして撥ね上げるのが鬼門だ。それさへ極まれば後はうまく流せばよい。「な」は、ややもすると縱に細くなりすぎる。下膨れはぶきつちよだ。兔角この世(略)。「ひ」は、UといふよりOを聯想する下に向かふ膨らみ。六號の覆刻に限ると、「は」「る」などの小さい丸、「ね」「れ」「わ」などの大きな折り返しなども難しいが、この系は書體史のなかの特異點とも思ふので、よしとする(謎)。
23:14
今頃再讀かよとか云はれさうな。茲二年くらゐ放置してゐた。しかし闇黒日記の中の人は私の文章を相變らず讀みはずす。殊に野嵜氏が私の文章を讀むときにこの障壁は效果を發揮するやうである。なんでここまでに意思疎通が圖れないのかわけわからん。
江戸時代は、假名と言つても、變體假名が存在し、複數の書體が用ゐられた時代である。日本人の識字率について
變體假名いふな。「書體が複數」ではなく、我々がいま一字に集約せしかなは、假名の發生からさうだつたのではなく、たとへば、我々が今「し」と決めてゐるものも、「志」や「之」などを崩したものが場合場合に遣ひわけられてゐたのであるからして、感覺の違ひになんと書いていいのかわからなくなるのを研究するのが筋である(支離滅裂)。……複數字體が遣ひわけられてゐた、で十分か?
18:29
やつぱり田舍の暇と都會の暇は性質が違ふものです。流冰が豐かな海産を育むのに必要である、とは最近判つたことですが、漁師はそれを知らず却つて流冰が無ければ魚が獲れると云つたといふ事例が示すやうに、圓を描いて巡る生活は、限りなく違ふ軌道を描くものを異物を排除する性質も持ち合はせてゐるやうです。池澤夏樹がその著に書くとほり、純粹な田舍といふものは妄想でしかないのですが、都會は嫌で農村がいい、といふのは、實にアヤシイ性質のものでありませう。
22:17
今覆刻作業中の六號の資料の、カタカナは所謂「明朝風」のカタカナです。「コ」を見本に擧げますと、
となります。しかし、百八十二版の『辭苑』では、カタカナは別のものが遣はれてゐます。六號ではないのかもしれませんが、評判はよろしくなかつたのかもしれません(調べようよ)。
23:56
鈴木廣光さんの聚珍録書評も字游工房のウェブサイトのリニューアルのあふりで消えてしまひましたか。殘念(記事は持つてますけどね)。正直、あのリニューアルは改惡ではないかと思ふのですが、どうなんでせう。
00:30
カバラ数秘術なるサイトで、占ひをしてみた。
カバラ誕生数(自分の本当の性格と現世での使命を解読する)
- あなたの誕生数
- 4 (宇宙の法則を操る管理者)
- 長所
- 勤勉、持久力、合理的、理論的、現実的、知識欲、思慮深い、独立心
- 短所
- 独断的、孤独、冷淡、強情、疑い深い、傲慢、形式主義、陰気、打算
- 備考
- 向上心があり、努力家だ。
カバラ姓名数(他人に与える印象を知り隠れた才能を発掘する)
- あなたの姓名数
- 1
- あなたの印象
- 男性的でたくましい。リーダーの才能がある。哲学、物理学などに向く。
あなたの2つの願望
- 外面的願望(子音数 22)
- 尊敬されたい、何か大きなことをやりとげたい
- 内面的願望(母音数 6)
- 美しくありたい、平和でありたい、恋をしたい、所有したい
簡易性格判断
- 名前の最初の子音
- K(すべての能力において強力である)
- 名前の最初の母音
- A(明るく陽気。社交上手で情熱家。やや短気)
性格や能力の傾向
- 右脳型(直観的)か左脳型(論理的)か
- 4 : 9 -- 左脳型
- 行動型か思索型か
- 5 : 8 -- やや思索型
- 熱中型か分散型か
- 6 : 7 -- どちらかといえば分散型
手拔き。
20:38
時枝誠記『国語学への道 - 時枝誠記博士著作選II』(明治書院、1976)、吉田健一『英国の文学』(岩波書店<岩波文庫青194-1>、1994)。時枝のはうは、三省堂から出た舊刊本を復原し、それに本人の訂正を加へたもので、「もとの版が漢字の字体は新字体を使用しているので、本書もそれに従(吉田東朔「校訂覚書」p.169)」つたもの。吉田のはうは、理想社の印刷になり、書體も理想社に獨特なものか、見たことがない。「も」の一劃目が、三劃目に少し觸れただけで撥ねてしまふ。全體的に良く撥ねが見られるが、「な」の縱に絞つた感じは秀英のやうで、「い」は大きすぎで類似例が思ひあたらぬ。印面は寫植のやうな印象だが、これいかに。錦精社とかかな(例によつて適當)。
23:19
あれでも一時間は直接太陽光を浴びてゐたんだらうか。日蔭には六時間ほどゐたが。腕が眞つ赤。顏も痛い。陽射しさへも。一年前の日燒け止めなど使ふものではないなあ。
吉田健一の文章は、前から讀んでみたい、とは思つてゐたものの、偶然書架に發見するまでは、特に探さうともしてゐなかつたのだが、試しに借りた『英国の文学』(岩波書店)はなかなかよろしいもので、よろしきめぐり合せなるかな、と思ふのであつた。彼が紹介する評論家にアァノルド (Matthew Arnold) があるが、曰く「この頃(ヴィクトリア時代、引用者註)の英国人は彼らが住んでいる醜悪な場所から彼らの勤め先がある同じく醜悪な場所まで汽車で十五分で行けるのを文明と心得ている」とあるのは、凡そ當てはまらぬ「近代國家」はなからうが、日本のやうに、四季全てを美しく眺めるのは、寧ろフランスに近く、イギリスは、醜惡な「冬にも堪えられる神経の持主なので春や夏の、我々ならば圧倒され兼ねない美しさが楽める」のだとも書く(或は言ふ、この言ふ、書くの峻別は近代的な態度らしく、詰り、文章内で「語る」と書くのを態々書くと「書き直す」ことは、「痛ましい倒錯(「ジョイス」『英国の近代文学』)」に相當するのではないか、とさうは言はれても文章の中で「語ら」れてもしかたがない身としてはやはり「書」いただらう、と思ふ)。即ち、フランス人に近しい日本人は、その姿を逆轉さすことによりイギリス人を空想するがよい、といふことである。作品は作者を超えうるが(この前置きはいやらしいかもしれない)、しかし、作品が生き生きするのは、やはり人間が生き生きしてゐるからで、その背後にはやはり作者が息づくのだ、といふのが彼の意見のやうで、つまり、「常に内容が技法の前にあるのであって、その逆ではない(高松雄一「解説」)」のである。
この見方は大分私に新しいものである。
21:18
小川一真のコロタイプと築地活版による解説文の組版で、築地活版による組版の、『真美大観』が示されてゐるのだが、舊いのと新しいのとが混ざつて遣はれてゐるやうに見える。「た」は新、「だ」「ば」「ふ」「を」は舊、「な」は新舊混用に見受けられる。明治31年築地体後期五号仮名のはじまりと比べると興味深い。……コロタイプといふ特殊な印刷のために、外註をしたのかもわからないか?
23:51
上田正昭編『<日本古代文化の探究>文字』(社会思想社、1975)、吉田健一『英国の近代文学』(岩波書店<岩波文庫青194-3>、1998)。前者、「万葉仮名の成立と展相」(川端善明)に、「文字は、音に対する補助的な形式として出発する (p.125)」といふのを讀んで、「假名遣ひは語に隨ふ」といふ歴史的假名遣の見方が理解できた氣がしました。大野晉の對談だけ讀んで終るかも。題だけ見て借りたのだよな。後者。素敵、でも本蘭はどうも好きになれない字だなあとつくづく。
23:31
XANO明朝(ver.0.2004.0509)をTTEditで見てゐて、文字一覽から、Unicodeのリストにして、F929のところを見ると、サンプルでは朗、XANOの字形では耦、グリフにアクセスすると鉥(多分)が表示される。
SJISであれば、JIS X 0212とJIS X 0213が衝突したかとでも考へられるが、Unicodeなので、多分、バグなのだらう。
14:29
『聚珍録』第一篇、p.389、畫像がをかしい氣がする。
15:45
も高校生向けの試驗に出る時代なのですね。前から出てるのかな。教科書や試驗で作品が使はれるのは、あまりいいイメージがないです。答へが複數ありうる、といふのが理由なのではなく、その程度だ、といふ感じがして。
今日は選擧ださうで。我郷里(何)では志位君が二囘來てをりましたが、たぶん小選擧區は落ちるでせう。ところで志位君は自分の小選擧區は良いんでせうか、比例だけなのかな。
19:07
謎といふタイトルは2囘目どころではない氣もするけれど、一意に管理してゐないのでまあいいや。W3Cさんは文句をいふが。
さて、謎といへば、自民黨候補が無駄に當選(今の段階では當確だが)してゐることである。初めて政策を國民が選擇できるのだ、といふ意見も目にしたが、選擇できるといつたら、郵政の民營化を先延ばしにするかどうかのみであつて、こんなので政策を選擇できるなどといふ人があらはれる、民主主義がいかに建前だけかと思はしめるここ數日のオピニオンの模樣は、やはり、この國が西洋流の近代を經驗してゐないことにおこると思ふのだが(證據になるかはわからないが、日本には近代小説と呼べるものが根付くことはなかつた)、けれど、經驗すべきとも思へぬし、いやんなつちやうなあといふしかないのか。
22:21
Firefox 1.5より、デフォルトの日本語書體がゴシック系(en-USの設定だとsans-serif)になるさうなのですが、今現在Serifをメインに(自己の意思で)設定してゐるわたくしめとしましては、そんなことすることないやんと思ふのであります。
23:09
これは、先週の金曜に買つたものだが、池澤夏樹『南の島のティオ』(楡出版、1992)。モトヤ。借りたもの。『<新潮日本文学アルバム>吉田健一』(新潮社、1995)、『英国の文学』ふたたび。
頁を確認し忘れました。大日本の系統。
21:15
アルバムなので眺める。しかし、文士とかいふ職業は、親が吉田茂といふのはあつても、ここまで生涯を公に曝されるものなのか。祖母宛の幼年の手紙、父親の履歴書だの辭令だのが載つてゐるのはなかなか奇妙。p.9「「交遊録」原稿冒頭「牧野伸顕」」といふキャプションのある原稿の寫眞、「旧字旧仮名使用厳守のこと!!」といふ書き込みがあるのが、p.74「「時間」原稿冒頭(「新潮」昭和50年1月号)」だと、「新字」「旧かな」「捨がな無(無は鉛筆による書込:引用者(?)註)」の判が押され、p.80「「絵空ごと」原稿(「文芸」昭和46年3月号)」では「新字新カナ捨カナ使用」となり、時間経過があるわけではないが、少し面白い。幼年の健一の文章は、ほぼ現代仮名遣におなじうして、大正9年あたりから「ゐ」だの「ゑ」だのが遣はれはじめる。雜誌掲載のものが、頭だけ出てゐたりするのを眺めて、p.57、p.58、pp.60-61、に築地後期六號(或は8ポイント)を遣つてあるのを見出したが、カタカナも『辭苑』のやうには變へてゐなかつた。印刷所が銘記されてゐるのは、pp.60-61の『批評』(批評發行所、第1卷第1號及び第2卷第4 號、同6號)の奧付であつて、東京市小石川區駕籠町五の宮島印刷所。吉田茂の自筆の履歴書(外務省入省の際に使用)があつて、マークアップしながらのデジタル化を試みると、
履歴書
東京府平民戸主 吉田茂
- 一父
- 東京府平民無職業
- 竹内綱
- 一母
- 京都府平民商業
- 藤田九平女瀧(亡)
- 一養父
- 福井縣平民無職業
- 吉田健三(亡)
- 一養母
- 東京府士族官吏
- 佐藤新九郎(亡)女士
- 一本籍
- 東京府豊島郡渋谷村廣庵八十八番地
- 一原住地
- 東京府豊島郡渋谷村廣庵八十八番地
- 一學事
- 明治廿二年二月神奈川縣高座郡明治村耕余義塾(私立)ニ入學同廿七年四月卒業ス
- 明治廿七年九月東京府糀町区日本中學校(私立)ニ入學同廿八年退校
- 明治廿八年九月東京神田区高等商業學校官立ニ入學仝年拾一月退校
- 明治廿九年九月東京四ッ谷区學習院官立ニ入學仝丗七年七月退校
- 明治丗七年九月東京帝國大学法科大学ニ入學仝丗九年七月卒業(証書写別低ノ(?)如シ)
- 一職業
- ナシ
- 一任免
- ナシ
- 一賞罰
- ナシ
右々通 吉田茂(印)
明治三十九年八月廿八日
「明治39年、外務省入省に際して提出した吉田茂の履歴書」『<新潮日本文学アルバム>吉田健一』(新潮社、1995、p.7)による
23:59
古本屋でトリストラム・シャンディを見つける。絶版らしい。買はねば。2650圓とはいい値段をしてをる。だけど印刷解體用の資金、ほぼ日手帳2006の資金を考へると……むう。本を賣るにも數册しかないしな。
勿論買ふばかりではだめなので、他にもすべきことは山積だが、寧ろ掛かりきりにならないといけないことがないでもないが、息がつまりさうでいやだ。
21:54
以前2004JISの責任者は私である、といふウェブページを紹介し、そこの記述の疑問點を一々擧げましたが、答へてもらへませんでした。そこで、彼のブログに行き、質問をしたところ、返事がありました。南堂への悪口は - Open ブログ。この回答で、やうやく謎は解消した、といへませう。
22:41
不斷よく前をとほる喫茶店に、先日から大きなポスターで抹茶何とかを賣り出してゐるのですが、よくよく見ると、可也の部分に岩田宋朝體。フラッペ、とかさういふのと、善哉の繪が載せてあつて、その品の名前と説明文に、遣はれてをりました。微妙にミスマッチである氣がしてなりません。
知合ひから「決戰」だの「氣合」だのを、大きく書いて呉れと頼まれました。趣味に走つていいよとの謎のおことば。
23:08
昨日まではこの時間には、コンピュータのファンが絶好調で、うるさくあつたものを、冷房も入れてゐないのに、靜かなままであるのは、秋は來たるかな、と思ふいまこのとき、コンピュータのファンの音に季節を感じるとはなんとも貧しと反省してみる。暖房入れたいなあ(え)。
20:50
「すべてこの世はこともなし」と覺えてゐたのだけどな(Browning, Robert「春の朝」『海潮音』上田敏譯、新潮社版、1952、p.89)。太田豐太郎病に罹りかけるが、まあ、よし。
鉤のごとくに讀點が曲つてゐる。少しやりすぎではないかとどきどきするくらゐに。
23:08
4年前ごろ、まだあのサービスもまともだつたころに(まだ17サーバくらゐだつた)利用契約を結んだことはありましたが、どんどんをかしくなるので二年前くらゐには全部解約をしてゐたはずが、なぜか最近廣告メイルがくるやうになる。あー、日記はまだ切つてなかつたかなあ。どちらにしろ送信解除方法が記載されてゐない(今日來たのには「登録してないのに報告用」のメイルアドレスは記されてゐたが)ので、なにがなんだか。
10:42
管氏ならどうなる、とでも思つてゐないが、小泉を更に粗製したやうなひとが代表になるとは、なんとも貧しいことだ。
18:37
初日の12:00ごろに澁谷に行けさうな見込み。文選かあ。これなら10/2のはうがいいかも。築地の6號活字があるなら早めに押さへておきたいしな。なやまし。
序でにオフしませんか?>誰か。9/30か10/2で。
18:58
私の發す一言々々が無知蒙昧に塗れて
恥を晒すのみだとしても
その一言々々がなければ何を知らず蒙くゐるのか
私が知ることはないだらう
私の發す一言々々は常に
私を離れて過ぎ去つた時間に留まる
彼らを眺めて私を構築することは出來ないが
彼らを叱して私を高めることは出來るだらう
だから實踐の場に教師がゐない
さういふ場所は不幸なのだ
18:28
結局某氏の件は2004JISの責任者は私だ、の一言が餘計だつただけであるやうに思はれるのだが、彼と彼のページをMLで紹介したまた別の某は、JIS 委員ぢやないでせう、との指摘の多さに、「肩書きがどうした」と憤慨のごやうすで、暢氣なる哉と思ふものだが、それはさて措き、肩書といへば官僚病。とある官員の名簿の原稿を校正する機會があつたのだが、向かうからの聯絡のときに來る書類の肩書を見て確認をするのだが、見る資料により字が違ふお方がしばしばあり、嘆息。齊藤姓はさういへばをらなんだ。あんなにゐたのに。字が違ふと抗議する方ばかりであるのに、こちらで見うる資料は殆どFAX、しかもつぶれて判別しそこなひかねないやうな(といふか確信がもちえない)小さなサイズで、迷惑極まりない。どうかしてる。
20:48
『折口信夫全集』第廿四卷、中央公論社、1975、岩田。宮澤賢治『新編 銀河鉄道の夜』新潮社、1989、リュウミン。『折口信夫全集』は、「死者の書」を入力するために。目次には秀英體五號、作品題には三號? 「ほんもの」(或は其れと知つて見ること)は初めて見るかも知れない。
20:53
白川静『漢字百話』中央公論新社<中公新書500>、1978。なんといふか、孔子の再來と云つたらいいのか。「民」も「臣」も「儒」も「媚」も存在の意義が失はれて等しいこのごろに、「いまの法の字には、そのような古代の羊神判のなごりはない(p.117)」なんて、まさに古禮を復さうとした孔子の面影を見る。
21:56
註記なきは孰も白川静『漢字百話』(中央公論新社<中公新書500>、1978)よりの引用。
00:18
すべて流行にすぎない、といふ説。「小説の時代は終った、ということを口にしたり書いたりすることは、文化現象=流行なのです(金井美恵子『小説論』岩波書店、1987)」。
00:36
机の上は片付かないし某で書いたものを「アヤシイ」と云はれて提示されたものがこれまた「アヤシ」くて(嵯峨版がタイポグラフィと無縁といふのはどういふ意味なんだらう、きりしたん版の次がギャンブル‐本木となる日本語タイポグラフィの歴史概説つてどうなんだらう、西洋活版術しか眼目にないのかしら)、むしやくしやする。
クールというのが「他人に干渉しない」などという意味だとすれば、モヒカン族はむしろホットだ
。
22:46
手近の半纏を羽織る、けれど暑くなりすぎる。
「秦篆は、始皇のときにはじめて作られたのではない。その字様は秦公の時期にすでに完成していたものである。(中略)文字改革を始皇の偉業のようにいい、いまの文字改革の先駆として顕彰しようとするのは、文化的なものを一人の創意に帰する、例の愚民政策の一つにすぎない。」(白川静「62 ヒエラチック」『文字百話』中央公論社、1978、p.148)
といふことで、けふの某MLの内容は誤りです。
22:34
きのふ話題にした某メイルマガジン、甲骨文を刀の故に先が直線的などといふ、見たことがないのだなあと感じ入らせるさまはぶざま。
白川先生の位置は、頗る近代的なところにある。絶えず過去と現在とを行き合ひ、搖らぐところがないのは、萬能人の顏をした近代人である。「裝飾體で正字を示すのに向かない」とする、明朝體を自身の字書の掲出字の書體に選ぶのは不可解ではあるが、「当用漢字」を捨て、「文字學」によつた字體を用ゐよといふのは、甲骨文などの字形を楷書などにも適用せよといふのではないことを確認しただけでも收穫としよう。
21:42
卷き爪の進行が甚だしくなつてきたので、足の指を四角に切つてみるが、どうにも格好がつかない。足の爪は人に見せるわけではないから、まだいいのだけれども、手の爪では絶對にやりたくないものだ。
白川氏の説に全面的に與する與しないは別としても、藤堂氏の字源説は、杜撰なところがあるとしてよい。たとへば、「法」の古字には、「薦」の草冠と取つた形が含まれるのだが、「法」での字源解釋と「薦」との字源解釋が異なる。『漢字源(JIS漢字版)』(藤堂秋保・松本昭・竹田晃編、學習研究社、2003)を引く――「牛に似ていて角が一本の獣のかたち(薦)」「しかと馬に似た珍しい獣の姿(法)」。字通に説文での形が出てゐるが、同じ形に描かれてをり、確認を怠つた――このやうな珍しい要素の――としか云ひやうがない。
23:36
むしやくしや(2)で、解消したかのやうに見えたのは、ただ私だけの問題であつたやうである。たうの、項目の問題については、いまだ解決せざる、とのこと。ふむ(よくわかつてゐない)。
23:13
時と場合による。
01:34
・築地系初號「あ」・(恐らく)日本活字工業二號「あ」・岩田母型12pt「あ」「くの字點」「ゝ」「々」・大日本印刷の寫植見本帳
活字の竝んだ棚を見てゐたら、府川さんがゐたのでびつくりして思はず變な動きをしてしまつたのだが、一方的に知つてゐるだけなので、ただ變な動きをしてゐる人だと見られたであらう。そのやうな人物を覺えておいででしたら、それが私です。
聲をかけようにも勇氣が出ず、12ptの棚から活字を拾つて、會計を兔も角も濟ませてから、と思つたのだが、12ptの活字をすぐに12ptだとわからず、くの字點の活字を二號にあはせてみたりして、不安になつてゐるうちに、府川さんはもうお歸りになつてゐた。
なんとなく悔しいので、隣のリブロで色々本を見て――『真性活字中毒者読本』を置いてゐる店を始めて見た――、高いなあとため息をつき、結局『孔子伝』(白川静、中央公論新社<文庫>、1991、2003)を買つて、歸つた。岩田の活字のスケールを買ひたかつたが、どうやつて取つていいのかわからないし、府川さんは今にも歸りさうであるし、との焦燥の中、失念したまま歸つた。
23:01
——貪欲と嫌惡と迷妄とを捨て、結び目を破り、命を失ふのを恐れることなく、犀の角のやうにただ獨り歩め
(中村元譯『ブッダの言葉 スッタニパータ』74詩、岩波書店、1984)
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