白川靜氏死去。主著を改訂するといふ大業を全ふなさらないで仕舞つたこと、氏に古代の世をより教へていただけないことを哀しむ。氏と同じ時代に生きられたことをのみ喜んで、寂しく想ふのである。
21:47
立ち仕事をしてゐると、内股なので、拇指にどうしても重心がかかつて卷爪がつらい。なんにくたびれてゐるのかよくわからないがなんだか草臥れてゐる。黒字にはまだまだとほい。喉飴を大量に消費してしまつてゐるが限度といふものがあることだ。
22:07
かういふ朝寒く晝は温い季節になると、朝に惱まされることとなるのだが、けふはそれにくはへて洟がとまらないので、風邪でもひいたやうであるのでみなみなさま注意あれたし。痰が普段どころではなくからむ……。
22:26
赤字であつた。まあ、あの惡條件としては精一杯の努力はしたと思ふのだが……。いづれにせよ、お疲れ樣でした。飮み會でその人を隱すのは大變さうである。今囘も斷つてばかりだつた氣がする。緊張がとぎれて、疲れてゐるのか(よくわからない(死))ネガティヴな感じ。生まれてごめんなさい、といふはうにはならないけど。人竝みに努力とかできんですいませんはかういふときには思ふ。受驗のときとかも。
23:51
朝日新聞社、2006.11。金井美恵子「目白雑録3」5「時代錯誤について」p. 63、「d/SIGN」とあるべきところ「dISIGN」。編輯者はなにをかんがへてゐるのだ。
23:55
起きたら聲ががらがらであつた。のど飴を4種類くらゐ食べてジキナトローチをなめ嗽藥をいれて嗽ひをしのどぬーるをやたらと使つて明日にそなへる(何故)。たうぜん學内でしか晝食をとることのできなかつた4日間は、毎囘違ふところで食べたのだが、二日目の餠をベースにしたお好み燒き(シネマウント・フィルム・パーティーか?)、三日目のサルサ(キリスト者の會。同時に日本國際ギデオン協會より贈呈のNew King James Versionをもとにした英和對照新約を配布。もらつたけどなくした)、四日目のフォー(ヴィエトナム留學生)が美味であつた。ESSのクレープはぼつたくり。モンゴルのは氣になるけどボリュームがありすぎるやうに見受けられたので敬遠。教育學部書道科の展示では實演に接することができた。書かせてくれるとのことで、やつてみようか迷つたけれど、逃げるやうにでていつた。高野切第一種をコロタイプ複製で見たこともあつて、特に臨模と頭の中で比べてみたが、どれも小綺麗にまとまつてゐる印象。かすれさへないのはをかしからう。模す上での制約といふものだらうか? スペイン料理を供すと宣傳してゐた合唱團はピザトーストやスペイン風フレンチトーストを實際には供してゐてスペインらしさを賣りにしないのが賣りなのだらうかと惱むも食べたいと思はないのはたしかで隣の出店でミネストローネを食べて暖まつた二日目。テントでの販賣に立つとやたら冷えるのである。もつと書道展のやうな展示をみればよかつた、とすこし反省。あー、落語研究會は見に行つたけどもりあがつたところで入り、盛り上がつたところで時間がきてしまつた。これも來年は……。
23:55
ここに行つてね、といはれていくのに「なんかあつたつけ?」とかいはれると、もの悲しい。けふ現場であつたことをあはせて鑑みるに依頼者がぐだぐだのやうである。嗚呼。
愚癡といふか呪言は現場で飽きるほど竝べたので(なにせ休憩は1時間(もつととればよかつた)で實質はたらいたのは1時間だけれども書類上では8時から17時半まではたらいたことになつてゐる)、一人大地讚頌合唱ができなくなつたのを哀しむとする。段々聲が出なくなるなあ。
さて、註文してゐたアースのドビュッシー録音(Haas, Monique: “Debussy: Suite bergamasque, Preludes, Children's Corner”. Erato Disques. 1971.……なのか? タイトル採録の仕方がわからぬ)と白川静『後期万葉論』(中央公論新社〈中公文庫〉、2002.11)が屆く。アースの録音はすでに持つてゐるものの、WARNER BEST 100 CLASSICSの一卷の“Debussy: Famous Piano Works”で、いろいろ落ちてゐるので買つたもののこのうへには全曲集が……。おまけに、Famous…に收められたものはすべてSuite…に收められてゐるだけではなく、録音年から見る限り録音源もおそらく同じだらう。ただし、Famous…はDigital Remasteringが施されてをり音色は綺麗である。……まあ、iTunesでApple Losslessにしてあるので、Famous…はほしいひとにあげます。
22:42
『天理圖書館善本叢書和書之部』第38卷「きりしたん版集一」(天理大學出版部、1976.5)を返却し、エリック・ホブズボウム、テレンス・レンジャー編『創られた伝統』(前川啓治・梶原景昭・長尾史郎譯、紀伊國屋書店〈文化人類學叢書〉、1992.6)を借り、池澤夏樹『花を運ぶ妹』(文藝春秋、2000.4)を買ひ(105円に下がるまで待つてゐた)、また石原千秋『国語教科書の思想』(筑摩書店〈ちくま新書〉、2005.10)も買ふ。
23:44
ものを見る目がかはる、といふのは非常に樂しいことである。いつか私の〈意味不明〉な發言が彼らにわかる日を待ちつつ……(無理)。
けふのかひもの。
吉川幸次郎・三好達治『新唐詩選』岩波書店〈岩波新書〉、1952.8。
築島裕『国語の歴史』東京大學出版會〈UP選書〉、1977.11。
ベルグソン『笑』林達夫譯、岩波書店〈岩波文庫〉、1938.1。
廚川文夫譯『ベーオウルフ 附フィンズブルフの戦』岩波書店〈岩波文庫〉、1941.6。
『graphic/design』二號を見る、池澤連載はまだウィキペディアに達してゐないやうだが、これからどうすすむのだらうか?
23:10
そのわりに1.5.0.8のままなのですが。お祭りは別といふことで。外樣ながら。話題の大半が私が現實味を持てるものではなく。まあそれはそれとしてああこの人が。といふ日でありました。
昨日古本を所持金のぎりぎりまで買つて。歸りに氣づいたことには。切符を買ふと20圓しか殘らないといふことでした。あらまあ。
23:18
指令にはほとほと愛想がつく、といふのは、いつものことで、人の睡眠時間を意味もなく奪ひ斷られるとわかつてゐながら或はわかりもせずに好きなときに電話をよこし根據もない自信に滿ちてゐるといつになく不滿を書くのは、2時間は餘計に寢ても依頼内容は果たせたからである。火曜もさういふ現場だつたわけだが。
といふわけで、眠いです。朝依頼の勤務時間に始めても仕方がないので始めるべき時間まで待つてから出て帽子が飛んだのを追つかけて走れば踏み込んだときに右足小指の爪がはがれかかつてその後は歩くのにも難儀だし(とはいへ家に歸るまでなにがあつたのかわからなかつた)、コーンが重くて腕がだるいし……(それはただ貧弱なだけです)。
20:38
いはれのない焦りが心をむしばむので、少しその由來をおもふに、オーバーロードに陷つてゐるのではないかといふことであつた。哀しむべき不器用ゆゑに人にたよることができぬので、なにを詰め込みすぎてゐるのかわからないのだが(ぇ)、かうなつてゐるのではないか。とりあへずペダルを踏みながら彈ける餘裕がほしい。
21:03
3時間、うちほんたうに集中したのは1時間くらゐであつたものの、電子ピアノをたたきつづけたら、かへりの足取りがふわふわしながら、まへにかういふふうになつたときに、充足感だと表現したら、疲れを勘違ひしてゐると指摘されて、さういふものかとおもつたことをおもひだし、しかし、かういふときはなにをするのにも集中できるのでわるいことばかりではないのである。
23:55
強調によつて明らかになるのは〈關係性〉だけであつて〈それ自體〉ではないのだといふこと、――それをとりちがへてはならないのだが、「神輿が白線のうへをすすむのをみると、車の不在が強調されてゐるやうにおもはれる」と書いて、その不在を述べることがそれ自體でなんの意味をもつかといへば、「私には車がゐないことが意味があるやうにおもふ」といふこと以上ではなくて、結局、「面倒でせうが迂囘ください」とかいふ、遠慮してまつりなどが成立してゐるのだといふことはその文では語られないのである、といふことを、反省した。
買つたもの。
吉川幸次郎・桑原武夫『新唐詩選續篇』岩波書店〈岩波新書〉、1954.5。
高津春繁『ギリシア神話』岩波書店〈岩波新書〉、1965.1。
貝塚茂樹『孔子』岩波書店〈岩波新書〉、1951.5。
池澤夏樹『バビロンに行きて歌え』新潮社〈新潮文庫〉、1993.5。
23:55
けふは某所で、電胎母型がどうのといふおはなし。某復元プロジェクトの成果といふのがどんなものだつたのか、といふのがとてもよくわかりました。
ライチアメの最後を記念に撮影しようかと思つたら電池がないのでしかたなくしないで食べた。
23:45
某縣において〈我が縣〉は〈植民地〉であると主張をしてゐた屋良候補の得票は、沖繩テレビの開票速報によると669,162票中6,220票(投票率約64.5%、23:36時點)であつたやうである。自民候補の勝利は基地へ經濟的につながれた結果精神までのまれてしまつたやうでさへある。白川靜は日本を半獨立國と呼び、屋良のとなへるやうにかんがへれば、沖繩は二重植民地となることだらう。本州から隱蔽された境界はその周圍の島々のうへに存在してゐるのだから、そこが邊境として――山奧のゴミ集積場のやうに――さまざまなものが中心から離れていくのはかんがへるまでもないのだ。そして、その精算は默認とともにやり過ごされてゐる。
私事、〆切はすぎてからが原稿確認の本番といふなにか高校時代もやつてゐたやうな惡い癖が…………。
23:50
縣民性とはどのやうにして語られはじめ、それがどのやうに容認され、或は否定され、變容していつたのか――それはひとびとにとつて都道府縣がどのやうな存在であるかをあかすものであらう。地圖にしえない集落から地圖に彩られた行政體へとひとびとは歸屬先をかへ(アンダーソン『想像の共同體』など)、その過程においてのみ行政區域に過ぎない都道府縣によつてひとびとをわけることはうまれることだらう。しばしば行政區域と生活上の地域區分、また歴史的地域區分とは一致しないからである(先日おこなはれた馬籠村の中津川市への合併は、歴史的地域區分と行政區域の一致よりも行政區域と生活上の地域區分の不一致を解消しようとした動きの一つといへやう)。しかし、その一方で縣民性といふかんがへかたには、とくにはじめて接するときひとにその出身縣別の縣民性を割り當てて――所與のものとして考へて――違和感をあたへない、さういふ役割を擔つてはゐないだらうか? それは、血液型による性格判斷が一種の暴力としてその被判定者におそひかかるやうに。
00:43
池澤夏樹『真夏のプリニウス』中央公論新社〈中公文庫〉、1993.10、1999.4(3版)。
マーケットプレイスで註文してゐた品。手數料がなんとなく高い。一冊一冊でしか註文できないのもいやん。
23:11
こどものバッハといふのを氣の紛らはしに彈いてみて、2ページ目くらゐのメヌエットで左手の法が右手より引くお玉杓子(死)の數が多かつただけで行詰つてしまつたのにはいぢけました。樂譜讀むの苦手なのです……(言訣としてきつい)。
22:25
學生でいふ「自主休校」(或は學生になるまで縁がなかつたといふことか)のやうなことを高校生だか中學生だか、とにかく制服が制定されてゐる學校へと通ふ生徒が晝間にあきらかにさうとわかる格好でしてゐるのをみるにつけて、なんで制服なんぞ面倒くさい衣服を著てゐるのだらう、と不思議でならない。著てゐてもそれを惡くおもふ風ではないのだし、學校に少しは顏を出すから著るのだらうか?
けふの購買物。
本橋亀石『現代書道三体字典(コンパクト版)』尚学図書、1985.4。
トルストイ『光あるうち光の中を歩め』原久一郎譯、新潮社〈新潮文庫〉、1952.6、1974.11(改版)。
『STUDIO VOICE』第194号、インファス、1992.2。
『STUDIO VOICE』第194号は「特集 文学へ。 まだ死ねずにいる文学のために」と題し安原顯と渡部直己、山崎浩一と上野俊哉の對談などが掲載されてゐる。安原と渡部の對談にいちいち反發を覺える。これはなぜだらうか。いちばんの理由としておもひあたるのが、私の記憶にない時代を顯彰して現在を貶し、おまへたちは駄目だなあといふ〈視線〉を感じるからだらう。また本人がもの知らずであることにまでさうであるのだから反感も覺ゆかとおもふのである。
23:47
湯島天神に行つたら入つてすぐに販賣所があつたので早々に合格祈願のお守りを買つて退散したので、湯島でなくてもよかつたのではないかと今頃おもふのです。
なんだかんだで好き勝手にうろうろして、氣の向くまで話してゐた、といふのはあまりないことなので(ふだんは忙しいしつもる話のある相手とゐるわけではないのだし)、ぐだぐだにおもへてもそれはそれでいいのではなかつたらうかと私は考へるのですが。
來月の6日に出て8に歸つてくるといふ夜行バス二泊三日の旅を計畫。目的は白川靜お別れ會出席……いつ寐られるんだろう?
23:55
大學圖書館に絶版出版物ではあるものの全集の欠(年表類がなくて全集の意義があるのか)を補ふやう購入要望を出したら無理といはれたのであるものの、新刊しかかはないのは資料を集める氣はないと云つてゐるやうなものではないかとすこし憤慨したので鬱憤を晴らすのにいま書いてゐる(朝日の古典全書も行方知れずなのであとで聞かねばならぬ)。
11:33
E.H.カー『歴史とは何か』清水幾太郎譯、岩波書店〈岩波新書〉、1962.3。
『日本語の歴史』1「民族のことばの誕生」、平凡社、1963.9。
『日本語の歴史』6「新しい国語への歩み」、平凡社、1970.5。
23:55
勝手にアルバイトをやめて今後どうしようなんてなんの寢言かとわれながらおもふのだが、設計の不備をおぎなふだけの意味のない仕事やくることもないものを待つことが厭になつてしまつたのだから、しかたがなからうと呟いてみるものの、「次」をいちばん求めにくい時期なのを默殺しきれないので、困つたといふことにしてゐる。古本代をどうし(以下略。
23:29
實に土曜以來のお晝ご飯、だけど麻婆茄子丼はたいしておいしくもなく。
返し忘れの支給品(誘導棒の持ち手だけ返してゐたのである)を持つていく、最後の給與の序でに。「組織とひととを混同してはならない」……、後に殘すものはなし。
23:55
古事記に見える死生觀。「青人草」、葦芽(あしかび)てのちの蛆蟲ころろ。人は草なり――かう觀念するには「悟り」がいるのではないか?
十二支。どうせ蘊蓄をいふならば十干十二支といつた制度から説き起こせばえられるものはあつたらうか。丑の呉音は「チュ」(小川他『新字源』角川書店、1968.1、p. 15)、牛の呉音は「ゴ」(小川他前掲書、p. 634)であるがごとく、イメージされるところの動物と十二支のそれぞれの語は音訓相通ぜず假借の關係にはない。神格化といふのをかなりの頻度で持ち出してゐたもののそれが十二支の割當てと關係があるかどうか、少なくとも福島で語られてゐたといふ起源説話には「動物の大將」とあれども「神」とはなし。ベラルーシ(いまどきベラルーシを白ロシアと註記せねばわからぬひとがどれほどゐるのだらうか)にまで廣がるのは、所謂タタールの軛、諸カン國の支配によるものだらうが、表にほとんど亂れがないことが注意されよう。僅かに豚/猪、兔/猫、羊/山羊が限られた範圍で搖れてゐたのみで、兔/猫のゆれがベラルーシと越南にのみ見られるらしいこと、またベラルーシ内部において兔/猫が搖れてゐることもさらに注意されてよからうとおもふ。動物と十二支の癒著をもたらしたものがなんだつたのか、それはなかなか、といふか今後わかるのか私には疑問なのだが、これくらゐならば努力の範圍なのではないだらうか、と勝手なことを書く。
本。ぎやどぺかどるを頼んだのだつたかどちりいなを頼んだのだつたか。ぎやどは國字本最高峰との呼び聲たかし。岩波文庫本ロドリゲス小文典がほしい。一家に一臺。
ジムノペディとグノシエンヌがしばしば頭の中で區別できなくなるが、どちらも難易度は低い。私でも彈ける。Rêverieはどうにも止まる。
行く宛てもなく4時間ほど圖書館をうろつく。文語とは何か。1階が暖房工事中なのでレファレンス書目がつかへないのがつらい。白川靜にとつかかりをみつけて自らの課題とするといふのはとても難儀なのだが、わざわざ京都に行くならさうしたいものだ。アラビアン・ナイト。原典を改竄してばらまかれたものがその名の下に享受される、それは忘れてはならないのではなからうか。الف ليلنةと名をあたへられてのち、中身が定まることがなかつたのであれば、文句をいふことはできないのではないか。天草版平家の索引と影印を發見するが忘れることにする。
23:55
——貪欲と嫌惡と迷妄とを捨て、結び目を破り、命を失ふのを恐れることなく、犀の角のやうにただ獨り歩め
(中村元譯『ブッダの言葉 スッタニパータ』74詩、岩波書店、1984)
DiaryMaker1.02b
Script written by れん©
Mail me for annul@karpan.net
annulをkzhrに@の後ろにmail.をつけてください。
著作權で保護されてゐる著作物は著作權者の許可なく、私的な範圍を超えた複製をしてはなりません。
Copyright some right reserved.
この日記のKzhrの作品については、
クリエイティブ・コモンズ・ライセンス(by-sa 日本)
の下でライセンスされています。