古事記に見える死生觀。「青人草」、葦芽(あしかび)てのちの蛆蟲ころろ。人は草なり――かう觀念するには「悟り」がいるのではないか?
十二支。どうせ蘊蓄をいふならば十干十二支といつた制度から説き起こせばえられるものはあつたらうか。丑の呉音は「チュ」(小川他『新字源』角川書店、1968.1、p. 15)、牛の呉音は「ゴ」(小川他前掲書、p. 634)であるがごとく、イメージされるところの動物と十二支のそれぞれの語は音訓相通ぜず假借の關係にはない。神格化といふのをかなりの頻度で持ち出してゐたもののそれが十二支の割當てと關係があるかどうか、少なくとも福島で語られてゐたといふ起源説話には「動物の大將」とあれども「神」とはなし。ベラルーシ(いまどきベラルーシを白ロシアと註記せねばわからぬひとがどれほどゐるのだらうか)にまで廣がるのは、所謂タタールの軛、諸カン國の支配によるものだらうが、表にほとんど亂れがないことが注意されよう。僅かに豚/猪、兔/猫、羊/山羊が限られた範圍で搖れてゐたのみで、兔/猫のゆれがベラルーシと越南にのみ見られるらしいこと、またベラルーシ内部において兔/猫が搖れてゐることもさらに注意されてよからうとおもふ。動物と十二支の癒著をもたらしたものがなんだつたのか、それはなかなか、といふか今後わかるのか私には疑問なのだが、これくらゐならば努力の範圍なのではないだらうか、と勝手なことを書く。
本。ぎやどぺかどるを頼んだのだつたかどちりいなを頼んだのだつたか。ぎやどは國字本最高峰との呼び聲たかし。岩波文庫本ロドリゲス小文典がほしい。一家に一臺。
ジムノペディとグノシエンヌがしばしば頭の中で區別できなくなるが、どちらも難易度は低い。私でも彈ける。Rêverieはどうにも止まる。
行く宛てもなく4時間ほど圖書館をうろつく。文語とは何か。1階が暖房工事中なのでレファレンス書目がつかへないのがつらい。白川靜にとつかかりをみつけて自らの課題とするといふのはとても難儀なのだが、わざわざ京都に行くならさうしたいものだ。アラビアン・ナイト。原典を改竄してばらまかれたものがその名の下に享受される、それは忘れてはならないのではなからうか。الف ليلنةと名をあたへられてのち、中身が定まることがなかつたのであれば、文句をいふことはできないのではないか。天草版平家の索引と影印を發見するが忘れることにする。
23:55
——貪欲と嫌惡と迷妄とを捨て、結び目を破り、命を失ふのを恐れることなく、犀の角のやうにただ獨り歩め
(中村元譯『ブッダの言葉 スッタニパータ』74詩、岩波書店、1984)
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