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第4回ワークショップ:文字―言語生活のなかの文字―/第1回研究会 (文字研究会) (1/30)
International Conference on Missionary Linguitics, 2010, Tokyo (3/16-19)
第21回 東洋学へのコンピュータ利用 (3/19) (!)
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デトックスが分りにくければ,體内環境正常化でもなんでもいいけれど,樹液シートといひ,なんとか健康水といひ,世にじぶんのからだが穢れてゐるといふ發想があふれてゐるのは,じつは,おどろきにあたひすることぢゃあないか。健康・美容業界における「ごっそり」なんて,ある意味,最たるものであるやうに思はれる。「すっきり」を越えてゐる。
古來かういふことがなかった,などと思ってゐるのではなく,いくらでもあったらうと思ふ。古來に體内の不淨を改善するものがあったとは知らないのだけれど(からだをきれいにする藥草って知らないな),精神的な面について言へば,日常的にけがれを落とさうとしてきたわけだし,日本佛教や神道は,いくぶん,清淨をもたらすものとして社會的に機能してきたきらひがある。
だから,體内がけがれてゐるといふ發想は,單に,人間が現代になって體内があるってことに氣づいたから起きたのではないかといふ氣がする。腸洗淨とか,樹液シートとか,いはゆる「ごっそり」系除去シリーズといふのは,健康グッズといふよりは,けがれおとしに見えてしかたがないのだ。
01:36
ある個人に業界史をお聞きするときは、そのかたの個人史をつねに業界史のなかで位置づけしながら聞かなければ迷ふ。
たとへて言はく、あるたびびとが述懷していふやう、「わが家では、朝には食パンのトーストを食べたものでした」。もし、この發言をその地域の食生活について尋ねてゐる文脈としたら、これだけでその地域について知ったものとするのは不足であることおびただしいのは明白であるが、しかし、この地域はパン食だと知ってゐれば滿足してしまふかもしれない;パン食はパン食でも、食パンをトーストをするのはこのひとの家だけだったり、このひとの所屬する集團だけで、となりの家ではさうではないことだって當然あるのだから、それがあり得方なのではなく、あり方だと思はないやうにしなければならない。
迷ふ、といふのは、かたよった歴史しか考へないといふことであり、それは、あり得方を十全に心得てゐないことを示す。個人史を聞きながら業界史を想ふのであれば、業界史のなかで、ある個人史がそのやうにあり得たことを考へなければならない。
昨日もじもじカフェで伺ったおはなしは、そのやうな點で、活版の時代のなにを教へられたのだらうかと反芻してゐる。
16:11
文學部のではなく、本部のなのだが、……わたしの入學をまへに退職なさった松本先生 (別府大) のなまへがある。ええと、2005年度以前から更新してないってことか? Dialectologyの專門家は非常勤なんですかね、いま (受けたことがないので分らない←さういふのばっかり)。
弘報でウェブサイトに十分にお金を使へないんだらうな。Assoc.Prof.だったりAssoc. Prof.だったりする不統一もあって、校正にも氣を配ってないのが分る。
14:34
NIKKEI NET(日経ネット):京大図書館に24時間自習室 国立大で全国初
今日も脳天気 不況の影
うらやましい、なんて云ひません。ええ、斷固として。
しかしこれは云ひたい。改修ずみの千葉大舊教養部棟のおてあらひから、石鹸設備が一切なくなったのはどういふ了簡のなせるわざなのかと。こぎれいなシンクなんかより (しかも使ひやすいわけでもお湯が出たりするわけでもない)、きたなくてもちゃんと手が洗へる設備を用意すべきではないのか。
……いまさらこんなことを書くのは、もうそろそろ文學部棟の改修が終って、なんとなくいやな豫感もしてゐるからなのです。最低限の設備くらゐあってゐてほしい。
00:54
——貪欲と嫌惡と迷妄とを捨て、結び目を破り、命を失ふのを恐れることなく、犀の角のやうにただ獨り歩め
(中村元譯『ブッダの言葉 スッタニパータ』74詩、岩波書店、1984)
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