あれでも一時間は直接太陽光を浴びてゐたんだらうか。日蔭には六時間ほどゐたが。腕が眞つ赤。顏も痛い。陽射しさへも。一年前の日燒け止めなど使ふものではないなあ。
吉田健一の文章は、前から讀んでみたい、とは思つてゐたものの、偶然書架に發見するまでは、特に探さうともしてゐなかつたのだが、試しに借りた『英国の文学』(岩波書店)はなかなかよろしいもので、よろしきめぐり合せなるかな、と思ふのであつた。彼が紹介する評論家にアァノルド (Matthew Arnold) があるが、曰く「この頃(ヴィクトリア時代、引用者註)の英国人は彼らが住んでいる醜悪な場所から彼らの勤め先がある同じく醜悪な場所まで汽車で十五分で行けるのを文明と心得ている」とあるのは、凡そ當てはまらぬ「近代國家」はなからうが、日本のやうに、四季全てを美しく眺めるのは、寧ろフランスに近く、イギリスは、醜惡な「冬にも堪えられる神経の持主なので春や夏の、我々ならば圧倒され兼ねない美しさが楽める」のだとも書く(或は言ふ、この言ふ、書くの峻別は近代的な態度らしく、詰り、文章内で「語る」と書くのを態々書くと「書き直す」ことは、「痛ましい倒錯(「ジョイス」『英国の近代文学』)」に相當するのではないか、とさうは言はれても文章の中で「語ら」れてもしかたがない身としてはやはり「書」いただらう、と思ふ)。即ち、フランス人に近しい日本人は、その姿を逆轉さすことによりイギリス人を空想するがよい、といふことである。作品は作者を超えうるが(この前置きはいやらしいかもしれない)、しかし、作品が生き生きするのは、やはり人間が生き生きしてゐるからで、その背後にはやはり作者が息づくのだ、といふのが彼の意見のやうで、つまり、「常に内容が技法の前にあるのであって、その逆ではない(高松雄一「解説」)」のである。
この見方は大分私に新しいものである。
21:18
——貪欲と嫌惡と迷妄とを捨て、結び目を破り、命を失ふのを恐れることなく、犀の角のやうにただ獨り歩め
(中村元譯『ブッダの言葉 スッタニパータ』74詩、岩波書店、1984)
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