と書いて、自己の行爲について去來することが少なからずあつたが、さうではなくて、今囘の芥川龍之介賞の選評を見て、さう思つたのである。
芥川賞は特殊な賞である。なんで受賞者から銓衡者を選ばねばならぬのだらうか。なぜ受賞作を出すかどうかで議論せねばならないのか。前者は全ての賞銓衡全部にいへることだが、後者は、「今囘もまた」と云つた趣で、成程「文藝の衰退」を殊更云ふ輩もをるらんとは思ひつつ(賞の下讀みの質が下がつてるだけでないの?とか芥川賞受賞者が今まで書いてきたやうな、或は芥川賞を受賞するに足るべき資質が備はる、との賞關係者が信ずる概念に沿つた作品が減つてゐるだけではないの?とは思ふ)、結局受賞作をよいとするのは黒井千次一人で、愼太郎は三角といつた所、他は軒竝み受賞作なしにでもしたいやうな雰圍氣であつた。池澤夏樹などは、「小説には他者が必要だと勉強した」なる旨書くし、なんのための銓衡だとはあんまり思はないのだが、芥川賞を過去に受賞した人で、いい物を出してゐるひとも、この現在の賞の濫發の煽りで、芥川賞受賞を理由に敬遠されたら、とつても哀しいことであると思ふのであつた。
21:42
——貪欲と嫌惡と迷妄とを捨て、結び目を破り、命を失ふのを恐れることなく、犀の角のやうにただ獨り歩め
(中村元譯『ブッダの言葉 スッタニパータ』74詩、岩波書店、1984)
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