トビ,ロナルド『「鎖国」という外交』小学館、2008。『日本の歴史』卷9。平川南・五味文彦・倉知克直ほか編。9卷-刊行中。2008-。
が屆く。早速讀んでしまふ。
著者のロナルド・トビ氏は、東アジアを視野として「鎖國」を再檢討してきたことで知られるアメリカの近世史研究者である(鶴田)。月報でのインタヴューでも記されてゐるが、1960年代に、日本に留學した際、ふとしたきっかけのために韓國に來訪したことがのちの研究に繋がったといふ。本書は、その著者が編輯委員に加はる『日本の歴史』の1卷をなし、江戸幕府の對外體制や、その前後との接續などについて、ひとめに見渡さうとする、本企劃における近世史の旗艦である。
本書の目次は以下のとほり。
- はじめに 「鎖国」史観を越えて 9
- 「鎖国」のストーリー
- 「鎖国」への疑問の出発点
- 朝鮮通信使との出会い
- なぜ、「鎖国」後も朝鮮通信使が?
- 「鎖国」史観からの脱却
- 第1章 徳川政権と朝鮮通信使 21
- 『江戸図屏風』の異形の行列 22
- 都市図屏風の誕生
- 家光と『江戸図屏風』
- 三代将軍の「御代始め」
- 大手門の異形の行列
- 朝鮮通信使とは何か 35
- ゆえなき侵略――壬辰・丁酉倭乱
- 通交回復に向けての戦後処理
- 通交回復と貿易再開
- 「回答兼刷還使」の派遣
- 「回答兼刷還使」から「通信使」へ
- 利用された朝鮮通信使 50
- 日本と朝鮮、異なる思惑
- 見物人――見える王権・見せる王権
- 通信使の日光社参と『東照社縁起絵巻』
- 強制された日光社参
- 耳塚と朝鮮通信使
- 幕府の演出が与えた影響
- 江戸を練り歩く『朝鮮通信使歓待図屏風』
- 『朝鮮通信使歓待図屏風』制作の背景
- 第2章 「鎖国」という外交――創造された「祖法」 75
- 「鎖国」の発見 76
- 「鎖国」ではなかった近世日本
- 「鎖国」という言葉の誕生
- ロシアの接近
- 世界規模の寒冷化
- 毛皮の需要増加とラクスマンの出現
- 松平定信が定めた過去 92
- 「現在を制する者は過去を制す」
- 「正学」となった林家の学問
- 『徳川実記』と松平定信のスタンス
- 近世日本の外交の実態
- 琉球の特殊な立場
- 「四つの口」について
- 日本の境界 112
- 自明ではない国境
- 幕府が作成した日本図
- 民間地図に見る境界認識
- ロシアの接近による変化
- 第3章 東アジア経済圏のなかの日本 127
- 近世日本の貿易と情報収集 128
- 情報収集の重要性
- 清の勃興に対する警戒感
- 明遺臣からの援軍要請
- 家光の援軍派遣構想
- 四つの情報収集ルート
- 幕府の情報処理
- 17世紀後半の大陸の動向と日本の情報収集 146
- 鉱物資源流出という問題
- 清と台湾の抗争
- 日本による情報収集
- 台湾征服の日本への影響
- 情報収集の成果だった貞享令
- 貞享令をどう評価するか
- 輸入品の国産化と吉宗の情報収集 167
- 鉱物資源流出への対策
- 輸入品国内生産の主張
- 新井白石の鉱物資源流出防止策
- 徳川吉宗による国産化の試み
- 清からの情報収集
- 第4章 描かれた異国人 183
- 唐のかなたから 184
- 日本人の異国認識
- 唐のかなた「天竺」
- 「天竺」から来たポルトガル人
- 変化した世界観
- 三国から万国へ
- 南蛮から唐人へ 199
- 南蛮人の退場
- 描かれることのなかった朝鮮人
- 南蛮人か、朝鮮人か?
- 朝鮮人コードの確立
- 「毛唐人」の誕生 210
- ひげをなくした日本人
- 清の辮髪とひげ面
- 辮髪への関心
- 和藤内の月代、韃靼の辮髪
- 「唐人の学び」
- 「毛唐人」
- 毛深くなる「毛唐人」
- 第5章 朝鮮通信使行列を読む 231
- 行列の時代 232
- 娯楽としての朝鮮通信使行列見物
- 行列の原理
- 行列の構造
- 描かれた朝鮮通信使行列
- 見物人の作法
- 浮絵のなかの朝鮮人行列 247
- いわゆる『朝鮮人来朝図』
- 謎の絵師「羽川藤永」
- 浮絵の系図
- 朝鮮通信使を描いたのか
- 多様な類似作品が語ること
- 祭りのなかの朝鮮人行列 263
- 祭りに取り込まれた朝鮮通信使
- もうひとつの『神田明神祭礼絵巻』
- 歌麿が描いた唐人趣味
- 賄い唐人
- 第6章 通詞いらぬ山――富士山と異国人の対話 275
- 異国から見える富士山 276
- ナショナル・シンボルとしての富士山
- 富士山を眺める「唐の者ども」
- 「富岳遠望奇譚」
- 知識人の反応
- 史実化する富岳遠望奇譚
- 異国人を引き寄せる富士山 299
- 富士山はどこまで見えるか
- 雪舟が中国で描いた富士山
- 「心あらば 今ひと旅の 深雪めでなん」
- 朝鮮通信使の反応
- 通詞いらぬ山
- 幻想の広まり
- 夷狄と霊山 316
- 「我守護の名山」
- 増加する異国退治譚
- 英国人による富士登山の衝撃
- オールコックへの反発
- 富岳対話の近・現代への遺産
- おわりに 329
- 参考文献 341
- 所蔵先一覧 343
- 索引 348
「見られる」ことなくして、外交はなしえない。本書では、すでに定著してきたと言ってよい、繪畫資料を〈讀む〉作業も踏まへつつ、近世期もっとも重要な「外國」だった朝鮮との外交を中心に、近世日本の對外姿勢を描きださうとしてゐる。そのなかで、もっとも著者が注目したのは朝鮮通信使であった。朝鮮通信使は、朝鮮侵攻(文祿・慶長の役/壬辰・丁酉倭亂)の媾和交渉使節(回答兼刷還通信使)として始められるとともに、徳川家康の天下人たる地位の誇示も目的として含まれてゐた。江戸幕府は、近世期に4つの對外ルートを持ってゐたが、朝鮮使節はそのなかでもっとも格が高く、大規模かつ豪奢なものであった。媾和をとりまとめてのちも、通信使は幾度となく請せられたが、囘を重ねるごとに、通信使を「朝貢國よりの使節が新しい天下人の即位を祝ふする」ものとする演出は際だってゆき、日光東照宮や耳塚參拜まで強要されるやうになる。本書でとり擧げられる繪畫資料は、そのやうな使節が町人の祭事にとり入れられて人氣を博してゐる屏風繪や、日光東照宮參拜を題にした屏風繪であるが、それらの繪の分析から、異國人をそれと示す記號樣式、翻って異國人と日本人を區別する記號樣式が確立されてゆく樣子が伺へるといふのである。これらのつみかさねから、結局、著者は、近世日本の朝鮮觀を描いて、明治へ繋がってゆく對外姿勢をも描かうとする。
本書のもうひとつの課題である、「鎖國」の再檢討は、第2,3章でなされる。第2章では、まづ、「はじめに」でも觸れられた、從來親しまれてきた江戸時代は「鎖國」といふ考へかたが、江戸幕府の政策の實態と異なるといふここ2,30年の研究傾向について觸れる。「鎖國」といふ認識が18世紀末を下らず、普及してきたのは幕末としたうへで、「鎖國」といふ語が生まれた背景をとり擧げ、またそれが意義を持った背景として、地球規模の寒冷化からロシア接近による松平定信のロシア斷交の理屈の創造、「日本の境界」といふところまで説きおよぶ。第3章では、具體的な外とのやりとりが取り扱はれる。これは著者の精論でよく知られる幕府の外交ルート・貿易の分析で、他章に説かれるやうな外事の表象と違って、「具體的な」政治・經濟史になってゐる。近代への非連續面が檢討されてゐるとも言へよう。日本は國内の銀が涸渇しかけるほどに貿易をしてゐたのであるが、出入國管理と同時に貿易を可能にしてゐたのは、當然外交であった。たとへば江戸幕府は明清交替と清の明殘存勢力驅逐の情勢に心を配ってをり、數年と遲れることなく最新情勢を得て、貿易船の入港制限などを圖った。また、吉宗は知識輸入により、輸入品の國産化に勢ひをつけてゆくことに成功した。「「鎖国」=「国を完全に閉ざしていた」」(トビ19)といふ漠然とした印象にはアクティヴすぎる實態があったのである。これを、著者は「日本型華夷観念」(トビ104)と呼ぶ[1]。
さて、本書は、鶴田などで書評された研究に多くを負ってゐると言ってよいやうに思ふが[2]、鶴田の批判を左に置きながら本書を眺めてみたい[3]。鶴田において、論證面の不足と批判され、研究状況の變化や本書執筆の態度を差し引いても本書の敍述のうへで捨てがたく思はれるのは、つぎのやうなことがらである:「@……「鎖国」の問題が幕末期の政治で大きな意味を持ったことについての言及が欠けている」(2081) こと、「A⑴ロシアの接近、蝦夷地の支配・「領有」など北方の問題」、「⑶貿易と国内流通・市場の問題」、「⑷民衆と対外関係の関連づけ」(2081) の輕視・捨象があらう。
@については、第2章において答へようと述べてゐるが(トビ79)、「鎖國」の意識はまだなかった「鎖國」前夜ともいへる、松平定信の寛政の改革の分析ののち、「鎖國」の語は登場しなくなるため、結果的に答へてはゐないといふことになる[4]。しかし、A⑴に關して、松平定信の政策を見てゆくことで、「鎖國」發見への道が固められてゆくさまは見ることができる。著者はまづ、「鎖國」が重要な語となる前段階として、松平定信の寛政の改革があったことを見出す。「鎖國」といふ語に對應する幕府政策は、「「通信・通商」という対外関係」(トビ91)が幕府の「祖法(「御国法」)」(トビ91)なのであるといふ構想を描き、ロシアとの通商開始を拒んだことによって創出されたが、これは寛政の改革の一環として、「現在の権力によって過去を再構築し、その新しい過去に基づいて未来を決定づけ」(トビ94)ようとして行はれたものであった。そのやうな努力の一環として、著者が從來の研究でもっとも注目されてきたものだ、ととり擧げるのは「寛政異學の禁」による朱子學のよりぬきであり、『御實記』(『徳川實記』)(と頼三陽『日本外史』)による過去の制壓であり、『群書類從』による古學の牽制である。A⑴について、蝦夷・琉球は、日本にとって唯一うはべでなく從屬を認められる存在であったものの[5]、幕府の支配域表現としての日本圖において、蝦夷・琉球は曖昧なかたちを取ってゐた。それはロシア接近以降蝦夷地地圖が作成され、對抗してゆく條件を整へていっても嚴密にはなりきらなかった。それは幕府にとってそれらの地が領地であり、領地でないといふ二義的な土地であったことによるとされる(トビ115-19)。これは千島列島については國境を定めるが、樺太については定めないといふことへ繋がってゆく。民間では、ロシア接近にともなひ、蝦夷・琉球を領地と捉へるやうになっていったことも示される。A⑶は、さきに紹介した第3章「17世紀後半の大陸の動向と日本の情報収集」および「輸入品の国産化と吉宗の情報収集」に詳しい。A⑷は、第1章で若干觸れられるほか、第4-6章に詳述される。本書の射程が廣いのも頷けよう。
このやうな、はばひろい著において、終結はどのやうになされるべきであらうか。本書においては、このやうな材料を活かして、どのやうにいままでの史觀を見つめなほすか、といふことを以て閉ぢられた。その題材として選ばれるのは、「江戸時代の朝鮮と日本の関係は、「善隣外交」「誠信外交」と呼ぶべき、友好的・親善的なものだった」(トビ330)といふ考へかたである。著者は、日朝で衝突がなかったことを認めつつ、このやうな友人關係をどちらも持たうとはしなかったことを指摘し、「善隣外交」の好例としてとり擧げられる雨森芳洲は、盧泰愚がそのやうな例として發掘したことで脚光を浴びたに過ぎないと述べる(330-31)。第6章でとり擧げられる富嶽遠望奇譚や三韓征伐の現實化が日本では行はれ、それを補強するものとして通信使があったために、明治政府・明治人はなんなく征韓論を唱へられたのである、とする。たとへ、これを單なる「符合」かつさかしらとなし、あるいは所詮みな、「自分」に都合のよい歴史を見るのだ、といふにせよ、考へておくべき「符合」であらう。
本書においてなされる繪畫資料讀解は、このやうな書評において列ねられることばが掬ひとるものよりさらに深くまで攫ってしまふ。それは講義よりもこどものはやしごゑひとつのはうがずっと印象ぶかく本質を見せつけてゐるのと似てゐるやうに思ふ。
[1] 「日本型華夷観念」といふ語は、著者のほかはあまり用ゐないやうで、渡辺・杉山では、荒野泰典氏の論攷を引いて、「日本型華夷秩序」と述べてゐる。鶴田も參照。
[2] 繪畫資料讀解の基本的なベースなどは、トビ,ロナルド『近世日本の国家形成と外交』(速水融・永積洋子・川勝平太譯)によるところが大きいが、それ以後に出された黒田日出男らとの分析によるところも多い。
[3] 鶴田においては、「鎖國」といふ語の批判が妥當か――「加藤の文章(前掲[引用者註、加藤榮一「鎖国論の現段階」『歴史評論』475 (1989): 2-25]「鎖国論の現段階」)は、近世国家・社会という体制が当時の人々に対して持っていた重み……に改めて注意を喚起した」のであり、それは「「華夷」論をもって「鎖国」に代え」(2083)られるのか――といふ、研究者全體に問うた、根本的批判があるが、このやうなことを確かめるのは評者の筆に餘ることであるし、本書の性質からも眞正面には扱はれてゐない。
[4] もちろん、これはミスなのであるが、これを輕いとみるか、重いとみるか。鶴田の引用部分を含む段落における批判について、著者は本書では觸れてゐない。研究不足といふことなのだらうか。
[5] うはべでの隷屬を歌ふのは、先述したとほり、朝鮮である。朝鮮が從屬的であるといふ認識は、朝鮮侵攻時の見下した言説を擴大することで、近世期中維持されたのである。第6章參照。
鶴田啓。ロナルド・トビ『近世日本の国家形成と外交』速水融・永積洋子・川勝平太訳・書評。『史學雜誌』100 (1992): 2073-83。
トビ,ロナルド『「鎖国」という外交』小学館、2008。『日本の歴史』卷9。平川南・五味文彦・倉知克直ほか編。9卷-刊行中。2008-。
渡辺美季・杉山清彦「近世後期東アジアの通行管理と国際秩序」。『海域アジア史研究入門』桃木至朗編。岩波書店、2008。
23:55
——貪欲と嫌惡と迷妄とを捨て、結び目を破り、命を失ふのを恐れることなく、犀の角のやうにただ獨り歩め
(中村元譯『ブッダの言葉 スッタニパータ』74詩、岩波書店、1984)
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