キリスト教概説。申命記6:4とか、4資料説とか。
中世。復元された今樣を聞く。ふむ。はあ。
くづし字は狩野本伊曾保を讀んだ。印刷が鮮明でないので苦勞する。書陵部本とはこまごまとした表現が異なる模樣。
ある程度廣い範圍の言語現象を記録するといふことはどういふことなのだらうと、ウィキペディアの近畿方言の項目を讀みながら考へる。いま、われわれが手にしうる記述は、なにか、代表させうるものを共有してゐるものの「まとまり」を代表させながら書いてゐるのに過ぎないのだけれども、それでないものも、その代表させられたものとちかしさを持つために、代表だけでも記述されてゐることは有意義であり、どの代表にちかしいかで線が引かれてしまふことも有意義なのではあつて、しかし、その「まとまり」を獨立させてしまつたときに生ずる、この捉へきれてゐないと思ふ感覺はどういふことなのだらう。土地のものが、じぶんのことばと隣人のことばとに懸隔を認めて、方言區劃に抗する、それともまた異なるこの感覺は、たとへば、よくいふ、大阪ではけえひん、京都ではきいひんといふのの、それが近畿方言を記述するにあたつて、なにをか物語るのか、といふことを問ふてしまふ感覺と同じい。近畿方言として云へることは、-ひんといふ助詞があるといふこと、なのであらうか。しかし、それはなんのための方言記述なのだらうか。
23:55
——貪欲と嫌惡と迷妄とを捨て、結び目を破り、命を失ふのを恐れることなく、犀の角のやうにただ獨り歩め
(中村元譯『ブッダの言葉 スッタニパータ』74詩、岩波書店、1984)
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