山田孝雄などは、假名遣の保持と傳統の保持を同列にしてゐるが、これはどのやうな起源をもつ思想なのだらうか。護國を唱へて豫算をもらはうなどといふ「いやしい」根性ばかりで假名遣が傳統を守るのだなどと唱へだしたのではないだらう。實際にさういふ效用があると信じてこそ主張も力が入るといふものである。この點につき、契沖が發音の違ひといふことに思ひもよらず、意味のちがひを書きわけてゐたのだと考へてゐたことはもつと重視せらるべきではなからうか、と考へてゐるものの、國字論爭は讀むのが疲れるので、乘り氣にならない。
23:55
——貪欲と嫌惡と迷妄とを捨て、結び目を破り、命を失ふのを恐れることなく、犀の角のやうにただ獨り歩め
(中村元譯『ブッダの言葉 スッタニパータ』74詩、岩波書店、1984)
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