しかし,アイヌの口承を,文語を用いて表象するという行為は,あたかも,アイヌの口承が日本語の文語に置き換えられるかのように設定してしまった,金田一の考えを反映している。それは,アイヌを「日本人」に,アイヌ語を言語学,国語学の構造の中に組み込む行為であり,金田一の引用文からもわかるように,アイヌという存在を「日本人」の過去にすりかえてしまう危険性をはらみもっていたのである。
金田一はけして國語にアイヌ語をくみこませなかつたのであり、知里もくみこませないといふ點で金田一にそむかなかつた、またただたんに自身の古典語で他者の古典語を譯すといふいとなみは、アイヌ語だけになされたわけではなかつた、といふ點はさておき(上田敏はヴェルレエヌを國語とよびたかつたのですか?)、いま氣にしておきたいのは、くみいれることの暴力がどのやうになされるかである。アイヌ文學は、アイヌ語とともにたしかにかなたにおきさられようとした(日本語に攝取されたなどといふ妄言はしりぞけよう。せめて呑みこんだといふべきである。開きなほるならばただしくせよ)。そして、アイヌ人は、まつろはぬ民でなくなつたことをよみされ、しかししつかりとアイヌ人であると刻印をおされる、これがアイヌ人のうへにあつた「くみこまれ」だらう。だから、金田一の翻譯がアイヌ人と日本人の關係になにかをもたらすのであれば、それは、アイヌ人からユカラをうばひさることではなかつたか、とおもふのである。
(附記:引用してゐる論文の主題は、論題にあるとほり、もちろん、ここにないが、讀んでゐる途中に氣づいた一點を書き記した)
Works Cited
佐藤=ロスベアグ・ナナ「知里真志保の日本語訳におけるオノマトペに関する試論」『言語文化研究』16.13(2005年): 113-26。
23:55
——貪欲と嫌惡と迷妄とを捨て、結び目を破り、命を失ふのを恐れることなく、犀の角のやうにただ獨り歩め
(中村元譯『ブッダの言葉 スッタニパータ』74詩、岩波書店、1984)
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