書誌學の概論を聞きながら、それにしてもこのご時世に長澤ばかり使ふのもいかがかと思ひながら、最新のものを語つては授業ができないといふことを思ひつつ、やはり、活字本を一字本的觀點から話されるとゐごこちが惡いのであつた。くの字點を、現代活字では「二字」であらはすが、それでも「一」字が活字の基本的單位だと考へつづける理由があるのか。……ううむ。
近代活字のところは字體の説明などどぎまぎだつたものの、なんの綱渡り?といふ感じで間違ひはいはない。これが嗅覺とやらなのかな。古活字版のところで、印刷博物館がキリシタン版を收藏してゐるといふのはおそらく誤りですが……。印刷博物館のウェブサイトのコレクション一覽をみなほすと、『耶蘇會士東方通信』があつたので、これを勘違ひしたものか。古活字版は朝鮮式か西洋式かといふはなしで、朝鮮式は高さを揃へるのが大變で、西洋式は易いといふのは、あやまりだし、あとの發言とも矛盾してゐる。
あしたはさらに近代活字のところをすすんでいくらしいです。フルニエ・ポイントといふのが配付資料からなんだかあやしいかをりがします。強調してたらいはう。
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——貪欲と嫌惡と迷妄とを捨て、結び目を破り、命を失ふのを恐れることなく、犀の角のやうにただ獨り歩め
(中村元譯『ブッダの言葉 スッタニパータ』74詩、岩波書店、1984)
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