おそらく、新村のやうな學者を先驅に得たのはキリシタン學にとり幸ひであつたのであらう。日本における開拓者はプティジャンやサトウ、村上直次郎などであらうが、プティジャンはともかく、後二者がどのやうな動機でキリシタン學の道に入つたか、調べるのは容易でないし、業績に觸れるのも歴史ある研究圖書館でなければ無理だらう。その點新村であれば、だいたいの圖書館にあつて、新村の研究にあたるのは容易だし、自身についても新村の學統にあたるおほくの優秀な學者によつてさまざまにおもひでが語られてをり、新村の位置を後代から描くのはたやすい。
けふの借り物。
守谷友江『アメリカ仏教の誕生 二〇世紀初頭における日系宗教の文化受容』阪南大学叢書64、現代史料出版、2001.12。ハワイ眞宗について。平田厚志『真宗思想史における「真俗二諦」論の展開』龍谷叢書9、京都: 龍谷学会、2001.3。も讀んでおきたい。
ひろたまさき、キャロル・グラッグ監修『歴史の描き方』1巻、酒井直樹編『ナショナル・ヒストリーを学び捨てる』、東京大学出版会、2006.11。わかるやうなわからないやうな。學び捨てる=unlearning。學び捨てるといふ、知的にスリリングな語について、本書はあまり示唆をあたへてくれないやうであるが、話題自體は興深いものがあるので讀んでおく。
23:55
——貪欲と嫌惡と迷妄とを捨て、結び目を破り、命を失ふのを恐れることなく、犀の角のやうにただ獨り歩め
(中村元譯『ブッダの言葉 スッタニパータ』74詩、岩波書店、1984)
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