傳統主義を隱れ蓑とするとまでいへば失當であるものの、歴史的假名遣をさうたらしめる思想はどんなものであるのかは、あまり重視されてこなかつた。しかし、歴史的假名遣のたちばがなければ、どういふ假名遣が眞に歴史的假名遣の名の下にもちゐられるべきなのか不明となる。どこまでも語源にさかのぼるたちばといふことはできない。なぜならば、8世紀ごろの文獻は歴史的假名遣の枠組みでは完全な對應をとれないからである。だからこそ歴史的假名遣は平安前期の發音を反映したなどといはれる。しかし、これはひらがなのしくみといふべきであつて、歴史的假名遣はひらがなと完全に重なるやうな概念では元來ない。もちろんひらがなは歴史的假名遣の上位に來るもので、すなはち歴史的假名遣を制約する。しかし、歴史的假名遣は想像して、平安の世にはすでに融合してゐた違ひを8世紀に遡つてみづからを定めることがある。つくえなどその例だつたはずである。また、もともとが平安にはなかつた語形は、音韻の融合をできるかぎり利用してもとの語形の假名遣を保たうとする。すなはち、にてが縮約したでは元の假名遣を保てないが、そのでを含むではないかが縮約したぢやないかではぢとじといふ融合した音韻を利用してでが殘されてゐる。このやうな操作を、可能とするのはどんな背景思想か?
ちなみに、日本式ローマ字が優れてゐるといふ主張はただの五十音表至上主義。
23:55
——貪欲と嫌惡と迷妄とを捨て、結び目を破り、命を失ふのを恐れることなく、犀の角のやうにただ獨り歩め
(中村元譯『ブッダの言葉 スッタニパータ』74詩、岩波書店、1984)
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