假名遣は、傳統をつねに身にまとふものであり、かるがゆゑにその存在をみきはめることは沒意識になりがちである。しかし、それがsystemにつかへるものであるかぎり、そのsystemについてかく書くべしといふ原理がなければならない。それで、といふのもなんだが、ideologue山田孝雄の『假名遣の歴史』(再版)を讀んでゐるのだが、正字正假名を標榜するところで結構な頻度で眼にする理論(?)のやうにも見える。先祖なのだらうか?
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——貪欲と嫌惡と迷妄とを捨て、結び目を破り、命を失ふのを恐れることなく、犀の角のやうにただ獨り歩め
(中村元譯『ブッダの言葉 スッタニパータ』74詩、岩波書店、1984)
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