寄る邊なき濫讀の一通過點には、しかし鮮やかなることばに醉ふ瞬間があつて、さひはひにも、けふはふたつの論攷のなかにそれを見いだし得た。
ひとつは長田俊樹「日本語系統論はなぜはやらなくなったのか 日本語系統論の現在・過去・未来」アレキサンダー・ボビン、長田俊樹編『日本語系統論の現在』、日文研叢書31、京都: 国際日本文化研究センター、2003.12、373-417のなかにあつた。鈴木廣光が書いた變な論文(長田がなぜ鈴木がかう變に書いたか意圖をとらへきれてゐないやうにも感じるのであとで鈴木の論文をゆつくり讀んで考へたい;なほ、鈴木はたしかに誤つたことを書いてゐる)や、日本語とナショナリズムを分析する書籍におほくある言語學の方法への無智(イや安田にもあるので一種どうしようもない)も勉強になることながら、まさに現状を總括しきる鮮やかさに感服。日本語を中心に言語系統論まるわかりといふ趣がある。上田萬年研究への新視座をせまるものとしても重要。
その次が青柳悦子「反=記憶装置としての小説 弛緩する散文的宇宙」および「コラム 「文学理論」とは何か」土田知則・青柳悦子『文学理論のプラクティス 物語・アイデンティティ・越境』、ワードマップ、新曜社、2001.5で、「……フィクションを読むという行為は、ジョン・サールらによって確立された言語行為(スピーチアクト)論による定義――虚構テクストとは、その内容の真実性が問われないような言表である――とは正反対に、フィクションの内容の真偽や事実性を、真剣に問う行為にほかならないのではないか」(161)、「……「文学理論」は文学研究の姿勢を表わすものであって、研究の対象として存在するのではなく、いわんや研究の成果としてなんらかの文学理論を抽出するなどということは想定外」(165)とあつて、前者にははつとさせられるものがあり(なにぶん佛教説話文學に通じるので)、後者にも、うかつにも、鮮やかに階段から突き落とされた感じがした。
長田のまどろつこしさすらある文體には鮮やかさはないかもしれないが、まとめる手際といふのは、一個一個の文の奇拔さでは見拔きえないと信ずる。
23:55
——貪欲と嫌惡と迷妄とを捨て、結び目を破り、命を失ふのを恐れることなく、犀の角のやうにただ獨り歩め
(中村元譯『ブッダの言葉 スッタニパータ』74詩、岩波書店、1984)
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