2007年10月23日(火)
第3囘。第2を收める。初囘に土井忠生の翻刻があるとしたのはあやまりで、大塚光信・海老澤有道校註本文が『日本思想體系』の「キリシタン書・排耶書」に收められてゐる。むかうのは讀みやすくしてあるので、本翻刻のやうに覺え書きのやうなのではない。よみ・對校・解釋などは同書を據るのがよいであらう。弟を弟と第とに意味で書きわけてゐることについてであるが、うつかりしてしまつたので、草稿のあひだはこれでとほす。第と弟とは通用してゐたとみてゐてよいので、ふつうの校訂であればかき分けられるところであらう。さらにいふ、第2囘において教化としたところは原文教他とあやまるのを見過ごしたものである(山口忠男「初期キリシタン版の國字大字本について 「ばうちずもの授けやう」の印刷面を中心として」『ビブリア』98 (1992)。同論文の漢字假名印字見本にほとんどの難讀部分で頼りにしてゐることをあかしておく)。
第二きりしたんのしるしとなる貴きくるすの事
師
いづれのきりしたんも我等がひかりなる御主ぜずきりしとの貴き御くるすに對奉て心の及ほど信心を持へき事專也其」(六オ)故は我等を科よりのがしたまはん爲にかのくるすにかゝりたくおほしめし玉ふ者也其によて我等が上にくるすのしるしをつねにとなゆる事肝要也○くるすのもんは三所に唱る也○一にはひたい○二には口○三にはむね也
弟
きりしたんのしるしとは何事ぞや
師
右に云しごとく貴き御くるす也
弟
其故いかん
師
我等が御主ぜずきりしとくるすの上にて我等をげだつし玉ふによて也
弟
げだつとは何事ぞや
師
じゆうの身となる事也
弟
なにたる人がじゆうに成ぞ」(六ウ)
師
とらはれ人すでにやつこの身と成たる者がじゆうに成る也
弟
さては我等はとらはれ人と成たる身か
師
中々とらはれたるやつこ也
弟
何たる者のやつこになりたるや
師
天狗と我等が科のやつこ也○御主の御ことばに科をゝかす者はてんまのやつこ也と宣ふよし見えたり故にいかんとなれば人もるたる科をゝかせば天狗即其者を進退するが故にやつこと成ける者也然にくるすにかゝたまふ道を以てさだめ玉ふがらさを以て其人の諸の」(七オ)科をのがしはなし玉ふによて其くるすの御功力を以て御主ぜずきりしとてんまのやつことなりたる所をうけかへし玉ふと申也されば人のやつことなりたる者をうけかへしてげだつじゆうになす事は眞に深き忍也なを又やつこなりし時の主人なさけなくあたりたるほどうけかへされたる忍も深き者也然に我等が御主ぜずきりしと天狗の手より科人をがらさを以てとりかへし玉ふ事じゆうになし玉ふ御忍の深き事いくそばくの事ならんや
弟
きりしたんはくるすをいくさまにとなゆるぞ
師
二樣に唱る也○一には†へるしなると云○二」(七ウ)には†へんぜると云也
弟
†へるしなるとは何事ぞや
師
右の大ゆびにてくるすのもんをひたいと口とむねにとなゆる也
弟
其三のもんを唱る時は何たる事を申上ぞ
師
†へるしいぬんさんてくるしすでいにみしすなふすちりすりへらなふすでうすなふすてる○このことばの心は我等がでうすさんたくるすの御しるしを以て我等がてきをのがしたまへと云心也†へるしいぬんさんてくるしすの一句を唱へてひたいにくるすをむすふ也†でいにみしずなふすちりすの一句には口にくるすを唱る也りへらなふすでうすなふずてるの一句にはむねにく」(八オ)るすをとなゆる也
弟
ひたいと口とむねと此三所にくるすを唱る事は何たるしさいぞや
師
ひたいに唱る事でうすよりまうねんをのけたまはん爲也口に唱る事は惡にまうごを口よりのがしたまはん爲也又むねに唱る事は心よりいづる惡き所作をのがしたまはん爲也てんまはくるすほとおそれ奉る事なし其故はすひりつなればたうけんむじゆんもかれにもちゆる道なし然れ共御主ぜずきりしとくるすの上にて死玉ふを以てかれらをばからめをきたまひ人をじようになしたまへばかれにちがづかんとする者より別に」(八ウ)あたをなす事叶はぬやう□□〔入力者云、二字不能讀。或申し歟。〕玉ふによて大きにくるすををそれ奉也○たとへをもて是を云ばつながれたるとらおほかめは彼らがそばによる者にのみくいつくがごとく御主ぜずきりしとくるすの上にをひて天狗をからめたまひてより後は科を以て天狗のそばによる者にのみあたをなすなり何れのもるたる科なりともをかす時は天狗のそばにたちより科をすてんとする時天狗のそばよりしりぞく也此等の事皆くるすにて死玉ふ御主ぜずきりしとの御功力を以て出來たると天狗はよく知たるによて大きにくるすををそるゝ也さんぜらうにもの宣はくいぬはう」(九オ)たれたるつえを見てをそれてにくるごとく也とさんげれがうりよ或じゆでよに付て宣ふは其れひいですをも持ずくるすをももちひずかへつてないがしろにするといへども或時あまたの天狗むらがりたる所にいり大きにそれあたをなされじが爲にかねてより身の上にくるすのもんをとなへければ天狗即あたをなさんとすれどもついにかなはざりしと也然ばひいてすを對せざる者さへくるすを唱て天狗をにがしけるによききりしたんの唱へ奉らばいかゝ有べきや
弟
へるしいなると云唱へは聽聞せり†べんぜると云唱へやうを教へたまへ」(九ウ)
師
右の手を以てひたいよりむねまで左のかたより右のかたまてくるすのもんを唱ゆる也口にて唱るもんは†いんなうみねはあちりすゑつひいりいゑつすひりつさんちあめん○此心はでうすはあてれひいりよゑすひりつさんとの御名を以てと申心也†いんなうみねはあちりすと唱時は手をひたいにさし†ゑつひいりよと申時は手をむねをさし†ゑつすひりつすと云時は左のかたさんちと云時は右のかたに手をやる也
弟
彼べんせるの唱は何の爲ぞ
師
我等を御うつしに作玉ふでうすはあてれひいりよすひりつさんと三のへるさうな御一體のでうすをあらはし申奉爲也」(十オ)
弟
其外に別のしさい有や
師
御くるすにて我等をすくひ玉ふ事をあらはし申爲也
弟
其しるしをばいかなる時に唱べきや
師
よろづの事を初る時となんぎにあふ時中にもねさまおきさま我かやどよりいて或はゑけれじやへいる時又はくい物のみ物の時唱也
弟
其しるしを度々に唱事は何事ぞ
師
でうす我等をてきの手よりのがしたまはん爲なれば何時も何たる所にても唱也
弟
所作を初時唱事は何たるしさいぞや
師
其所作を我等がてきよりさまたげらるま」(十ウ)じき爲又其所作はでうすのくろうりやと成奉爲也
弟
我等がてきとは何たる物ぞ
師
世界 天狗 色身これ也
弟
此三の事をなにしに人間のてきとは云ぞや
師
てきとはあにまにしきりに科をかさする事かなはねども惡をすゝめ又其道にひきかたふくる事かなふによて也
弟
彼三樣のてきよりおこすてんたさんをでうすやめたまはぬ事はいかん
師
それとてきたいでうすの御合力を以てりうんをひらき又其りうんの御くはんじやうを與へたまはん爲也」(十一オ)
弟
天狗は何と樣にてんたさんをすゝむるぞ
師
心にあくねんをおこし又科におつるたよりとなるべき事を其まへにをくもの也
弟
其あくねんをば何と樣にふせくべきぞ
師
其道はおほき也中にも三あり○一にはあくねんおこる時ぜんねんにひきかゆる事○二にはむねにくるすのもんを唱事○三にはばうちずものみづをかしらにそゝく事是也
弟
惡のたよりとなるちなみを何とふせくべきぞ
師
一にはちなみをにくる事○二にはおら」(十一ウ)しよする事○三にはよきいけんを聞こと是也
弟
世界をてきと云は世間は我等が爲には何たる物ぞ
師
世間にする惡行惡事又惡人を名付て世間と云ぞ
弟
世間は何と樣にてんたさんをすゝむるぞ
師
右に申せし惡行惡事と又は惡人の惡きざうたん以下をおもひいださする者也
弟
此等の儀をふせく道はいかん
師
其道はでうすの御おきてと御主ぜずきりしとを初として善人達の御さげうをおもひ出だす事也」(十二オ)
弟
にくしんをてきと云は何事ぞ
師
うけつゝく物の科によて惡き生得の此色身を云也其上みづからをかしたる科によてあしきくせのじうまんしたる所をさしてかく名付也
弟
此色身は何とてんたさんをすゝむるぞ
師
身にある惡き生得と惡きくせを以て科にかたふくる者也
弟
其惡き生得とあくへきは何事ぞ
師
心中におこるみだりなるのぞみ也是即心をくらまして惡を見知ぬ樣にする者也其と云は身の深きのぞみとたのもしきとあいするとにくむとよろこびとかなしみとをそれといかりなどの事也」(十二ウ)
弟
きりしたんの唱る事は何事ぞや
師
貴きぜずゝの御名也
弟
其故いかん
師
ぜずゝとは御扶手てと申心也それによて我等がなんき大事のじせつ御さいどりやく有へき爲にぜずゝの貴き御名を唱へ奉る也かるがゆへにぜずゝのたふとき御名を唱へ聞奉る時深くうやまひ奉るべし
22:54
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——貪欲と嫌惡と迷妄とを捨て、結び目を破り、命を失ふのを恐れることなく、犀の角のやうにただ獨り歩め (中村元譯『ブッダの言葉 スッタニパータ』74詩、岩波書店、1984)
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