實物を見る機會になかなか惠まれず、都内某所に國字本ありと聞くも紹介してもらふ宛てもなく(特に移動に關するニュースを聞かないのでどういふ關係でいま某所にあるのかしらないのだけれど)、影印本を見ながら妄想をたくましくしてゐるのですが、印刷史的なキリシタン版研究において謎、或は課題といへることは次のごとくまとめられるのではないか、と最近考へてゐます:ひとつには、國字本大字本が木に彫刻して作られたことは搖るがないとして、そのほかの製作工程もこれを敷衍してよいのか、ふたつめは、日本語文字活字の大きさはなにを基準としてゐたのか、みつつめは、鈴木廣光氏が最近の論文でいはれた、枠としての活字ボディのみかた(鈴木広光「古活字版のタイポグラフィ」『國文學 解釈と教材の研究』58.10 (2007): 48-56)について、嵯峨本に近いのはやはり小字本で、殘餘が大字本に近いと考へられること(もちろん、小字本には連綿があり、大字本にはなく、大字本は字面率が低く、小字本は高いといふほかの資料にはない問題がある)といふことである。これを詳論するには度胸と文獻・資料調査と研究が足りてゐないけれども。
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——貪欲と嫌惡と迷妄とを捨て、結び目を破り、命を失ふのを恐れることなく、犀の角のやうにただ獨り歩め
(中村元譯『ブッダの言葉 スッタニパータ』74詩、岩波書店、1984)
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