『りはめより100倍恐ろしい』(木堂椎、角川書店、2006)の題名の眞意を内藤朝雄HP −いじめと現代社会BLOG−にて知つたのだけれど、いぢられたいと叫ぶ藝人とそれをみてわらふひとびとに耐えがたさを覺える私としては、讀むことはないだらう。
自分にはいぢめはなかつたといふ記憶しかないのだが、思ひかへせば、いぢめいぢめられ、或はいぢりいぢられる對象であつたのだらうと考へる。ただ、集團に同調するのが基本的に不得手なので、いはれてみれば「いぢり」なのかもしれないあれらのことどもが、いぢることを目してなされたのかいまいちわからない。個人的怒りから加害のはうを味方したこともあるのだが、私が彼と絶縁することを決めたので、被害者が親の轉勤で引越し、戻つてきたのちのことはよほどでもなければ耳に入らなかつた。
コミュニティといへばウィキペディアがおもひつくのだが、内藤氏のコミュニティ理解はウェブコミュニティを排除してゐるやうである。また、個人的體驗の強さが斷定の強さに大きく影響をあたへてゐるやうにおもはれ、その聲のおほきさが疑問を打ち消してしまはないかとおもつた。
ウィキペディアについてもうすこし述べれば、ウィキペディア内の生態學をかんがへてみるのはしてみる價値がありさうだが、もう眠い。いくつか指摘しておけば、日本語版のコミュニティは英語版を參照して獨自につくつた生態系であるといふことである。ウィキメディア財團運營プロジェクトのコミュニティがひとしくかかへる問題點としては、 Wikipedia を書いているのは誰?に指摘されてゐる、書き手の集團がおほくコミュニティの外にゐるといふこと(つまり、集團ではない)、たとへコミュニティの内部の人間でも(といふか財團理事に立候補するひとでも)プロジェクトのすすめかたについてコミュニティの蓄積よりも自分の意見を重視することであらう。たぶんそのほかのことは、たとへばNPOV(どの觀點にも中正な評價をあたへる記述を求める方針)についての理解、多言語主義・多樣性の尊重などへの態度について云々することは、いはば階級内鬪爭なんであらう。
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——貪欲と嫌惡と迷妄とを捨て、結び目を破り、命を失ふのを恐れることなく、犀の角のやうにただ獨り歩め
(中村元譯『ブッダの言葉 スッタニパータ』74詩、岩波書店、1984)
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