小西知七・東森勳編『プラクティカルジーニアス英和辞典』(大修館書店、2004.11)を買ふ。初級辭典としては『グランドセンチュリー』初版をつかつてゐた(これの和英は小西の編になる:木原研三監修『グランドセンチュリー英和辞典』三省堂、2000.1;小西知七編『グランドセンチュリー和英辞典』三省堂、2000.1)が、こちらは小西の代表作のジーニアスシリーズの初級向けである。
ふと言語の入り口といふものをかんがへてみる。言語を知るといふのはどういふことかあきらかではないが、こと言語をつかつた相互理解がひととほりできるやうになることをいへば、このやうな便利なものを通じて英語を學ぶことができるわれわれは、あまり惱まずに英語に通ずることができる、といふ環境にある。では、英語はだれでも學べる言語であるからその言語の門は開かれてゐるのか、といふと、よくわからない。このまへアメリカ合衆國人らしいひととチャットをしてゐたら「ぼくの日本語よりはうまいよ」といはれた。じじつ彼の日本語は下手なのでなぐさめではないのだが、ならばてまへも日本語ではなしてみやす、くらゐの配慮をみせいと思ふが癪なのでいはない。このやうに、英語教育に投資しても容易にはかどらないことはおほい。あるひとはいふ、机のうへで學んでも駄目であると。これは古くよりいはれてゐることである。ロドリゲスも小文典で文法書で學んだひとはへんなことをいふと述べてゐる。ただ私の古文は机のうへで學んだものであるし英語よりずつと金をかけてゐないが(2桁くらゐちがふ)、さう間違つて讀みはしないしさう變なものは書いてゐまいと思つてゐる。異文化學習としての古文をだれも重視しないのが嘆かはしいかぎりであるが、古典日本語は立派な異言語であり、先祖であるがゆゑに迂闊に親しみをもつとはねつけられる言語である。深層では通じてゐるといつても、社會構造の變化により眞につながつてゐるものを見いだすのは困難きはまりない。だから、日本人にして英語のはうが容易だと述べるひとがゐるのもそれ自體不思議なことではないだらう。さうすると、結局は、親しめるかといふことになつてしまふのであらうか。言語能力はまだくはしくあきらかでないからなんで話せるかも結局あきらかでない。しかし、英語の音韻のことを理解できるやうになつたからとて英語がわかるやうになるものかといふと、問題としては少し易しくもなるだらうか。アラビア語についていふかぎり、音韻はわからずとも印刷物は讀めるのである。古典ギリシア語でも教師はギリシア語の音韻に通じてゐなかつた。以上の議論は言語に慣れやすければそれは門が開かれてゐるのであるといふ假説に基づいてゐる。しかしさうだらうか。ロンゴロンゴ文字のひとびとの言語は、確實に現代の人間に閉ざされてゐるとはいへるが……。
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——貪欲と嫌惡と迷妄とを捨て、結び目を破り、命を失ふのを恐れることなく、犀の角のやうにただ獨り歩め
(中村元譯『ブッダの言葉 スッタニパータ』74詩、岩波書店、1984)
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