通辭ロドリゲスは日本語の辯舌に長け家康などの權力者にも愛されたといはれるが、母語であるはずのポルトガル語には深いコンプレックスを負つてゐたこともまたしられてゐる。土井忠生が解説で原文に意圖を解しかねたところがおほいと述べるが、かれは、ポルトガルの片田舍からうまれきて、そのままだからだ、と云つてゐる。それを、我が口をして事實を語らしめよとばかりに書き續けたやうなのである。そこには國語の深い呪縛がすでにあつて、おそらくそれは、彼の日本文典を讀むわれわれにもおよんでゐるのだらう。それが讀み手にある國語の呪縛とどのやうに呼應するかは、人次第であらうが。
印刷の條をみたが、日歐文化比較とほとんど同じことを述べてゐるやうである。木活字も金屬活字も古くからあるやうな書きぶりだな、と感じた。
問題意識が定まらないと文獻調査をしてゐてもゆさぶられるばかりである、と生活費よりもコピー費を優先させながら考へた。
中村征宏『文字をつくる』新技法シリーズ、美術出版社、1977.4。
をかりる。
23:56
——貪欲と嫌惡と迷妄とを捨て、結び目を破り、命を失ふのを恐れることなく、犀の角のやうにただ獨り歩め
(中村元譯『ブッダの言葉 スッタニパータ』74詩、岩波書店、1984)
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