知惠熱が絶對でるよなあとおもふやうなことを日々してゐるので、餘暇でも本を讀む氣がしない、といふよりも、文字を休み時間に讀みたくなることをしてゐないのである。それでも、行き歸りですこしは本を讀んでゐて、いま一番知的な刺激を受けてゐるのが小峯和明『説話の森』(岩波書店〈岩波現代文庫〉)である。なんの所縁であつたらうか、今たしかにはしかねるが、キリシタン文學を、「まぢめに」といつては少し失禮にあたるが、讀んだものだからであつた。
長いといふほどではないが薄くもないものをわづかな時間で讀むのは無理があるので、手始めにキリシタン文學の部分を讀んだのだが、キリシタンの風景は中世にこそあり、近世にはないことが伊曾保物語の比較讀解だけでもわからうといふものだつた。試みに一節を引く。『伊曽保物語』では……、もはや乱世ではない安穏な処世訓に変貌しており、表現力の喪失に対応している。……
これは、キリシタンで語られる聖人傳にも影響し、
天草本イソップは、たんに世界文学としてのイソップだから珍重されるのではない。西洋の翻訳ではありつつも、むしろそこから飛躍し、十六世紀の表現の時空を獲得しているから重要なのである。悲嘆のきわみを強調し、哀切の情に訴えることで、より信仰へ人々をいざなう。そういう表現の構造はそれまでの仏法や神祇の唱導世界で培われてきたものであり、キリシタンもそれに乗せてい
つたのである。亂世の對極である徳川政權においては語りのエネルギーは中世のやうには發散しなかつたし、そもそもいかなる團體も中央を目指して大きくなることはなかつた。
この説話としての評価の一方で、ローマ字による日本語表記を、海外宣教師の日本語教科書としてだけではなく、ローマ字による言語支配も意図
したと述べる。鈴木廣光が「世界印刷通史解説」(『世界印刷通史』ゆまに書房〈書誌書目シリーズ〉)で引いた豐島の「印刷物=古典」説のやうに、ただちに肯んじかねることのやうにおもふ。
23:55
——貪欲と嫌惡と迷妄とを捨て、結び目を破り、命を失ふのを恐れることなく、犀の角のやうにただ獨り歩め
(中村元譯『ブッダの言葉 スッタニパータ』74詩、岩波書店、1984)
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