ただのおふざけを除いた、実質の最終行で、歌謠が所謂万葉假名による表記であるのを捕へて、これだけは漢文にし得なかつたといふ人もゐるが、太安万侶の創作にかかる文體にだまされたのだらうと私は考へてゐる。
と書いたが、これは……いまある古事記にそくして見ると、伝承や古語を書きとどめたというのはあたらない。……訓字の意味によってことがらを述べたところで、作り出している素朴さである。また、そこにあることばも、……文字世界のなかのことば(訓読のことば)なのである
とあるのによる。もちろん、この立場には疑問もすくなくないのであるが、いづれにしても、文字を借りるのにとどまらず、言葉をも借りて書いてゐるのを無視してゐることへの反論にはしうるだらう。この段を書くのに西條勉『古事記の文字法』(笠間書院、1998.6)第一章を參看したが、この問題を考へる一助となるやうに思つたので紹介する。
山口仲美『日本語の歴史』(岩波書店〈新書〉、2006.5)では、序章に相当する「日本語がなくなったら」で最後にいはれてゐる、明治時代になると、話し言葉と書き言葉は、絶望的に離れてしまいました。人々は、書く言葉を話す言葉に近づけようと戦い、とにもかくにも両者の一致を完成させます。
といふのは、文章語とて個人語の一種であり、手本といふ規範を明瞭に意識しつつ自らの言語に影響されながらあるのだ、といふ躍動性が一概に否定されてゐるやうで、不安を誘ふのである。もちろん概論的なこの部分で、くはしく指摘するといふことはしかねるやもしれないが、補遺として書いておくものである。
23:33
——貪欲と嫌惡と迷妄とを捨て、結び目を破り、命を失ふのを恐れることなく、犀の角のやうにただ獨り歩め
(中村元譯『ブッダの言葉 スッタニパータ』74詩、岩波書店、1984)
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