日常を營むもの同士が互いの關係について想像し合つた結果の社會といふものが退屈でないわけがなくて、そこでは、日本國憲法前文の一節、われらは、……國際社會において、名譽ある地位を占めたいと思ふ
といふ言葉が不氣味に響く。その想像の實體がよくわかるとは、はたして想像の産物に對してどのやうに接することなのか想像が行かない。たとへば家族で、家族の起源が何であれ觀念である以上は想像の産物といへるのが、なにかの行爲を通じてより「わかる」としたら、類似する「他の」家族とのかかはりのなかで、ただ「自分の」家族の個々の構成員に對する考へが改まることなのかもしれず、またそれにより、「自分の」家族の構成員がひろがりもし、類推によつて「他の」家族の内實を想像できるやうになることなのかもわからない。「自分の家族」がわからねばそれまでで、共有物の所有によつてたしかめられるすべての關係と正常に關はりをもてなくなる。
自分の感情の「どれが」「内からわき出づるもの」で、どれが「この場合はかういふ風に思ふ物だらうといふ觀念によるもの」であるかを辯別できるとして、後者にわけられたものは、「ほんたうでない」と云つてそう感じるのをやめるべきなのだらうか?
ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』上、河島英昭譯、東京創元社、1990.1。
アン・モロウ・リンドバーグ『海からの贈物』吉田健一譯、新潮社〈文庫〉、1967.7、2004.5 (2nd ed.)。
池澤夏樹『スティル・ライフ』中央公論社、1988.2。
ひとから「英文翻譯體」の文章だといはれて、意識してさうしてゐてまだこなれてゐないといふ辯解は可能であるが、素地から云つても翻譯物が多くを占めてゐて、日本語が原典であるものが、そもそも書棚で多勢を占めてゐるとはいひがたいことにいま氣づいた。
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——貪欲と嫌惡と迷妄とを捨て、結び目を破り、命を失ふのを恐れることなく、犀の角のやうにただ獨り歩め
(中村元譯『ブッダの言葉 スッタニパータ』74詩、岩波書店、1984)
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