文字の機能の歴史を見るのに文法や音聲にもちゐるほど經濟のことは持ち込めなくてそれはアルファベットが經濟のための發明でなくて他言語に用ゐられてゐた文字を轉用する過程で生じたことから明らかである。かなでアルファベットを試みればさしあたり「くあ」は「か」、「つえ」は「て」とするやうなのが思ひ浮かんでアルファベットの發明といふのは要するにかういふことなのに過ぎない。略字は表現の經濟のために生み出されるがしかし常に新たに生み出される字形には理解されないといふ不經濟がはらんでゐて、それでわかる字と使ひ分けるなら略字か通用字を覺えてゐる手間がかかりもして經濟に適ふとは言ひ切れない。いつか引いた傘の略字を題に取つて略字についての考察をした書物に傘字を傘字と見分けるのに必要な部分があれば人がなくてもいいといふのは人の暗示がされてゐるやうなスペースを缺いては傘字とわかつてゐるのに奇妙な別字に見える。しかし機を[木キ]とするやうなのはすぐに機を想起させて知らなくともわかるといへる。略字がある一方で構成要素を増やすこともあつてそれは表現の經濟に則つた行爲とはいひがたい。しかし一字が多義であるのも讀む經濟に反して、それで形聲が用ゐられた。ローマン・アルファベットも數多くの經濟に反することが含まれてゐて文字は讀めるが語が讀めないのが問題になると氣付かれにくくした。またラテン語がたつた26文字ですんだために結局それですまない語は26文字に新たな文字を付け加へるといふよりすでにある文字をさらに細分することで擴張するしかなくて(ゲール語などに例外もある)それでローマン・アルファベットの變種がアルファベットを用ゐるほとんどの言語でうまれた(日本語とて例外ではないが補助記號がはやらないのでほとんど意識されない)。そしてそれはわかりやすさを犧牲にしかけてゐる點で經濟的とは言ひ難いと認められるだらう。
それで、文字にとつて經濟的とはなにか、といふのを考へると、書きやすさ(=その場の便利)だけではないのは明らかで、音聲以上に分別のしやすさが經濟を左右してゐるのではなからうかと思はれる。つまり、少なくとも共時では解釋可能な文字があらはれるのであつてそれが經濟的かどうかはまづ共時的にわかりやすいかどうか檢討する必要があつてだから經濟を持ち込むのは容易でない(書いてほとんど編輯してゐないので支離滅裂もよいところ)。
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——貪欲と嫌惡と迷妄とを捨て、結び目を破り、命を失ふのを恐れることなく、犀の角のやうにただ獨り歩め
(中村元譯『ブッダの言葉 スッタニパータ』74詩、岩波書店、1984)
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