これはやはり小説であつて、ノンフィクションではない。
しかし、なぜ、この小説はたつたの「一週間」にフレームが限定されてゐるのだらうか。そして、ソ聯崩壞より1年ほどのCISで、一週間の内に、ロシア革命に始まりスターリンの大肅清が、スターリン死後のソ聯が繰り廣げられる、その速さと規模の大きさとに、當然立ち止まる隙などないのだ。なぜこのやうな「忙しすぎる」小説でなければならなかつたのか? 滔々と流れる語り口の速さに一致するかのやうにそれぞれの絡合ひが頂點に達するのである。
この小説の、謂ば裏側にあるものは、たしかに著者の經驗であり、それぞれの個人の來し方であらう。しかし、「素材」がどんなに個性があらうとも、シーマチカや、オリガ、エレオノーラ、ジーナの來し方が語られる材料としてなんの違和もなく從つてゐるのは、フィクションだからこそであつたのだ。ノンフィクションでオリガがこのやうに描かれ得ただらうか? フィクションかノンフィクションかといふので、これを考へぬのは不自然でかつ不十分なことである(この書評がどんなものを意識してゐるかは、Google でオリガ・モリソヴナの反語法と入れて檢索なさつて、でてきた書評をいくつか眺めるとおわかりになるかとおもふ)。
01:55
——貪欲と嫌惡と迷妄とを捨て、結び目を破り、命を失ふのを恐れることなく、犀の角のやうにただ獨り歩め
(中村元譯『ブッダの言葉 スッタニパータ』74詩、岩波書店、1984)
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