江戸時代の識字率が高い低いといふのには注意深くあるべきだとしか思つてゐないのだが、『横書き登場』において、屋名池誠が、ただ單に識字率が低かった
と書くのは、無用心だと思ふ。その根據は徴兵のときの學力檢査の結果(「京都府徴兵學力試驗成績表」『大日本教育會雜誌』92號)なのだが、そのころはすでに学制にもとづく近代教育を受けることができた世代であり、それも京都府という先進地の、しかも男性という好条件が三拍子揃っているにもかかわらず、受験者7205名中、自分の姓名の書ける者は51.3%しかおらず、文字をまったく知らないものがまだ13.6%もい
たといふ。しかし、網野善彦が書くやうに(といふか網野を讀んでこれを書くのだが)、江戸幕府は当初から、町や村の人たちの中に文字がつかえる人がいることを前提にした体制だといってよい
ほどなのであり、よしそれは庄屋だとかの階級に過ぎぬとしても(これについても高橋敏「村の識字と「民主主義」」(國立歴史民俗博物館編『新しい史料学を求めて』所收、1997.3)において「反證」が見出されるが)、それは、「階級差」を無理に平たくして識字率を量るといふ無茶ゆゑではなからうか。
ゆらりと頭をめぐらせてみれば、學制で學校に行けた人が自分の姓名すら書けないわけはなくて(徴兵制での學力檢査だから、誰も學業はおへてゐるのだらう)、學校がすぐに「國民にあまねきもの」となつたわけではないのだから當時の状況をひととほり概觀してみる。
學制、といふ法令は、1872年(明治5年)に發布され、79年(明14)に教育令にかはられ、教育令が數次の改正を經て86年(明19)に學校令にかはられたのちは學校令を基本に教育敕書や高等學校令などが公布されていく。徴兵制は72年に徴兵令の公布から始まり、明治22年のときは20歳の時點で徴兵檢査がおこなはれてゐる。すなはち、明治2年出生の男子が檢査されて推察してよいのだらう。彼らは明治8年に學校に入つてゐる「筈」であるが、しかし、學制は國民の負擔などの問題から反撥が多く、實效が薄かつたといはれる。教育令に移ったのは明治14年だから、彼らは小學校の下等を卒業し、上等に這入つてゐる年齡だが、朝令暮改の學校制度法令などから、近代教育を受けることができた
かどうかはあやしい。江戸時代の農村での教育はどういふ形態であつたかは知らぬが、明治の動亂でその形態を保持しえたのだらうか? そんな混迷期のデータをもとにして、なにがいひえるのだらうか、と、推論に推論を重ねての結論をまをしあげる。
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——貪欲と嫌惡と迷妄とを捨て、結び目を破り、命を失ふのを恐れることなく、犀の角のやうにただ獨り歩め
(中村元譯『ブッダの言葉 スッタニパータ』74詩、岩波書店、1984)
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