here症候群といふものがある。“here”だとか、「こちら」だとかに、リンクを矢鱈張ることをいふのだが、それがなぜよろしくないかといへば、a要素のhref屬性の内容と「こちら」といふ語になんら意味上のつながりがないからである。かういふ状況を想定してみよう。あるウェブページにアクセスして文章を讀んでゐるのである。そのとき、なんの脈絡もなく、こちらとだけ書かれたパラグラフがあらはれ、「こちら」にはリンクが張つてあつたとする。そのとき「こちら」とはなんなのか、ひとは理解できるだらうか? リンクを辿れば、わかるかもしれない。しかし、それが全く關係のないウェブページであつたらどうだらうか。關係がないやうにおもはれるだけで Author からすれば關係があるのかもしれないが、それはUAにも、讀み手にもわからないことである。そこでひとはかういふのだ。a要素の内容は、href屬性の内容と對應するのが望ましい、と。
しかし――やうやく來たなどと思はないやうに――それでもhere症候群をやつてしまふのは、なぜか?
ウィキといふ仕組みで興味深いものがあるとしたら、here症候群に罹つてゐるひとでも「リンクはこちら」と書くのはきはめてやり難い點にある。リンクの作成方法がどういふのであれ、ウィキにおいては、項目の名前を書くことがリンクをする方法の根柢となる。CamelCase のウィキで HowToInstall と書けばそれがリンクとなりそのリンク先は「インストールの仕方」についてのページだと一目で分る。ウィキは基本的に「閉ぢた」システムだから、「何について」といふのは基本的に不要である。つまり、How to install the software is here./ Here is about how to install the software. ではなく、HowToInstall the software なのである。そして、この二つの比較に、here症候群の原因は見出されるのではなからうか。
hereといふとき、その前後の文脈をみると、hereとその前後とを結ぶ“is”の存在に目が行く。察するに、「何々」よりも、「何々は何々」といふはうがより「落著く」がために、ひとびとは、“is here”を連呼するのではなからうか? 自分はそこに言及してゐるのだといふことを明確に示すために。is here を缺いた HowToInstall は、なんだか參照してゐるのだかしてゐないのだかわからなくなつて、それでつひ is here をつけてしまふ。
しかし、マークアップといふのは、その部分がどういふ意味かを機械に讀みやすくしようとして要素でくくるのであり、そのために here は前後の文脈の集約として意味はあるのだけれども、部分としてとりあげたときに意味がないためにそのやうなマークアップはマークアップとしての機能を果たさない。それならば、hereが意味をなす部分をすべてa要素で圍つてしまつたはうがまだよいのではなからうか。
here症候群をハイパーテキストへの不順應などと呼ぶのはどうだらう(謎落ち)。
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——貪欲と嫌惡と迷妄とを捨て、結び目を破り、命を失ふのを恐れることなく、犀の角のやうにただ獨り歩め
(中村元譯『ブッダの言葉 スッタニパータ』74詩、岩波書店、1984)
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