杉本つとむによれば、漢字は不合理でありかなを〈發見〉しえたわれわれはその軛から脱すべきであるといふ(『異体字とは何か 日本語講座I』秋櫻社、1982.11)。勿論私は「常用漢字は不徹底」と豪語するよくありし表音派の一人でもあつた杉本に贊成はすまい。しかしそんじよそこらにない洞察の深さは派閥だけを見て否定する淺さに勝る。
私は表音派に一種の絶望を見てゐる。漢字は日本の軛かと問うたら誰もがさうだと答へるのではなからうかとさへ思ふ。それが「研究すればするほど、漢字が将来とも日本語の表記文字としてもっとも好ましいとは思われないと確信」させるのだらう。また、つきつめてしまふからこそ瑣末に思へることもたへられないのではないか。たとへば「(干禄辞書には)時には〈正〉が二つもあげられている。」(「正字と異体字」)といふのは、なににか目をつりあげんか、と不思議になり、「こうした規範書の出現がすべての文字生活をリードし、確乎とした正式なる文字字形の確立をすることなどありえなかった」(「正字と異体字」)など、いい氣味だといはんばかりである。しかし、「仮名の効用」や「ありがたさ」を、彼はつきつめただらうか。どうなんだらうか。
しかし、本書はそれだけではない――ただ過去の實例を明朝體にして〈例示字形化〉してゐるのは缺陷だとおもふのだが――智識としてはある〈本字〉のない世界の一端が「どうだ」といはんばかりに見せ付けられてたぢろいでしまひさうである。この知られたらざる「異體字の世界」を見たとき、その沼が深いことにわれわれは氣づいて、實に足許の覺束ないことを知る。そのとき私たちの知る「漢字」とはなにかといふ問ひに沈默せざるをえぬのは、杉本とて同じであるやうに思はれるのは私の傲慢ゆゑか。
さういへばこのひとは支那とは書かんな。府川さん、滲みついた臭が私には辛いです。
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——貪欲と嫌惡と迷妄とを捨て、結び目を破り、命を失ふのを恐れることなく、犀の角のやうにただ獨り歩め
(中村元譯『ブッダの言葉 スッタニパータ』74詩、岩波書店、1984)
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