池澤夏樹の書き物に――過去が残らないことを嘆く必要はないのだ。もし過去がそっくり形を保ったとしたら、われわれはその厖大な量に押しつぶされ、生きている死者たちに遠慮して暮らさなくてはならない。……
といふのがある。さうだ、といふ外なからう。が、しかし、と云はう。しかし、それで良いのだらうか。
白川靜のいふことは、成程殷の世を自由に行き交つて得られたものかもしれない……それこそ吉田健一のいふやうに過去の記録からその記録者以上にその時代に自由だつた賜物だと。しかし、漢字はそれだけではなかつた。生きた文字として突如として産聲をあげた彼の昔からずつと自在だつた。今でも淺はかな現代人が〈正字〉を求めて右往左往するのをからかつてゐるのではないかとさへ感じる。それは右往左往するのに極つてゐる。〈生きて〉ゐる時間が違ひすぎる。誰だつて深奧にはたどりつけまい。幼兒期がやうやくあの異才によつて傳記が書かれただけなのだ。漢字の過去がすべて解明されるといふことを想像してみる。それで、われわれは何を書くといふのか?
この無意味な想像は、しかし冒頭に掲げた引用に囘歸するのにも極つてゐて、それで再びこの語句を檢討する。それで死者に遠慮する
といふのは巧いレトリックであるかもしれないと考へる。彼らが生きてゐたままを保つて〈死なない〉といふことが死者が〈生きる〉といふことになる。もちろんそれは我々の妄想に過ぎないのでだからわれわれは忘れる。死者からすればよくもしやあしやあと、と云ひたくなるほどに。だから忘れないやうにイメージを喚起させるものを用意する。上に掲げた引用を書いてから30年も経た池澤が書くやうに――歴史には過去を現在に、現在を未来につなぐ義務がある。/記念碑とはそのための装置だ。
結局は、一人のひとに戻つてくる。過去は絶えずその人を離れないだらう。日々失はれる分よりつけ加へられるはうが多い過去はうまく付合ふのにとてつもないバイタリティを要するのかもしれない。あなたの隣人をあなたが知らなくともそのひとにも過去はつけ加へられる。そしてそれがそのひとを〈そのひと〉にしてゐる。その人を知るかは結局はあなた次第で、知つていがみあひもし和しもするし、互ひに知つてゐることだけで皮相な話をしもする。そしてその互ひに知るものこそは記念碑がつなぎとめた過去に外ならず、またそれが〈常識〉である。「ソクラテスの死んだ日に吹いた風」どころか、「晝間聞いた小鳥」の行く末さへ知りやうがない。それは記念碑に書けないからである。書けない以上一人一人の記憶は、誰の邪魔をすることもなく消えて行き記念碑に書かれたものだけが世の中で力を振るふ。そこから「ソクラテスの死んだ日に吹いた風」をできないことを承知で想像する
かどうか、それは、その人にかかつてゐる。
22:20
——貪欲と嫌惡と迷妄とを捨て、結び目を破り、命を失ふのを恐れることなく、犀の角のやうにただ獨り歩め
(中村元譯『ブッダの言葉 スッタニパータ』74詩、岩波書店、1984)
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