時代によつて評價が異なる、といふと評價軸の變遷など、個人の中でさへあるのにこのひとの多き世の中の文物の積み重ねたる歴史からなんの制限もつけずに探してこい、といふのは隨分贅澤な課題である。採點官諸賢にあられては、どんなものを持ち出されても平氣であらうし〈專門分野〉になくとも同僚諸賢の援助が得られようが、こちらはなんの參考資料の用意もなくつまり貧弱な知能で書くほかないが、それゆゑの少しの記憶違ひなどは、當然容認されるものと信ずる。
さて本題に移らう。當被試驗者は次の主題の元に當小論文を敍述する: 「書體の評價の變遷を巡つて 日本における活字書體とその使用」
寺院を中心に行はれてゐた開版の作業において、木活字が導入されたのはいつごろかは知らぬが、そこに用ゐられた文字はほぼ楷書に限られただらう。なぜならば、大陸や半島との交流によつて齎された佛典などの中心に据わつてゐて、その書體はまづ〈楷書〉の枠のなかに收めうる書體であつたからである。その〈楷書=漢字カナ交ぢり〉のフレームは、官衙や寺院のなかでささへられてきた。よくよく知られるとほり李朝銅活字は楷書であつたし、皇帝に上奏するその文字は楷書、しかも政府制定の字書とたがはぬことが要されて、それで行草が用ゐられやうもなかつた。手紙文などの、そのそとである〈行草=假名漢字交ぢり〉の世界へ印刷の世界が廣がつたのは、きりしたん版によるものといはれる。彼らはなぜいままで多かつた楷書から行書へと轉じただらうか。さきに掲げたフレームのなかで、きりしたん版は對象讀者を官ではなく民に向けた。これは、織田信長がキリスト教勢を佛教精力と論爭させた、そのやうな官許の道ではなくて神の教へを人々に説いてやる方法で、それには楷書ではなくて行書が必要だつたのであつた。活字を評價する軸としては、このやうな書體を用ゐる場との對照がまづ行はれてゐた時代があつた。そして、活字はプライベート・プレスへと追ひやられ、世は製版と寫本が覆つたが、それでもこの枠は維持されたままであつた。
時間が掛かりすぎるのでここらで打ち止め。
22:37
——貪欲と嫌惡と迷妄とを捨て、結び目を破り、命を失ふのを恐れることなく、犀の角のやうにただ獨り歩め
(中村元譯『ブッダの言葉 スッタニパータ』74詩、岩波書店、1984)
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