國立歴史民俗博物館編『歴博大學院セミナー新しい史料學を求めて』(同館、1997)讀了。いくつか掲載されてゐる圖版の解讀はさぼつたわけであるけれども、大變面白く一日で讀んでしまつた。 ISBNはないし、歴博のウェブサイトの刊行物の一覽のなかにも見えないが、歴博に行けば賣つてゐることだらう。交通は惡いが。
昨日の歸りに乘つた日比谷線で、東武の電車に乘つたのだが、「非常時の際は」とかいふやつで、乘降口の脇に掲げてあるのの文字が、えらいゆがんでゐて、二度現れる文字がまつたく同じなので書き文字ではないのだらうが、見出しと本文とで書體が微妙に違ふらしいといふのには仰け反る。
游明朝に苦手意識がある。字面から享ける印象がどうにも「苦手」なのだが、なぜだらうと思つてゐるうちに、府川さんの『聚珍録』の假名の卷を見てゐて游明朝が大日本の戰後書體に取材したとあつて、なるほど、これは大日本のが苦手だからか、と納得が行つた。凸版ほど苦手でもないのだけれど。
書體のライセンスは變なものがだいぶんあると思ふ。中村書體室のライセンスが公開されてあつたので見たが、用途を指定しない旨をわざわざ書いてどうするのだらう。縛るほうが(つまり現在の多くの電子書體は)をかしい。岩田も縛つてゐるらしい(らしい、といふのは私が買つたパッケージには契約書がなくて(!)見てをらぬのだけど)が、勝手なことだ。なんの權利を守りたいのかさつぱりわからないのだけれども。讓渡も出來ないといふのも變なの、と思ふ。書體にしろプログラムにしろ、著作權といふもので保護をするのには向かないのではなからうか。
未だに戰後五十年だとか云ひさうになる時間間隔のなさは問題がある。取敢ず(何)サザエさん(テレビ版、といふかこれしか知らない)は嫌ひ。
18:44
——貪欲と嫌惡と迷妄とを捨て、結び目を破り、命を失ふのを恐れることなく、犀の角のやうにただ獨り歩め
(中村元譯『ブッダの言葉 スッタニパータ』74詩、岩波書店、1984)
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