10:00の開場前に澁谷パルコに到着し、早すぎたと反省。開いて、すぐにロゴス・ギャラリーに向かふと、FeZnさんに遭遇。少し挨拶して、FeZnさんは品物を見に這入つた。わたしはもうあらかた見てゐるので、ぶらぶらと眺める。清水金之助さんは用意のさなかで、ギャラリーの關係者なのか、机を運んできた若い男性に用意を手傳はせてゐた。10:30ごろになつて――といふのもPHSを家に忘れて時計がなかつたので今日はいつなにがあつたのかさつぱりわからない――明月堂(だつた氣がする)のひとが、清水金之助さんのプロフィールを配りはじめた。10:30から清水さんの名人藝が披瀝されたのだが、彼の話からの知見も交へながら、プロフィールを紹介したいと思ふ。
清水金之助さんは、1922年1月10日にお生まれになつた。場所は聞いてゐないが、話し方などから東京のお生まれであらう。1936年、馬場政吉さんといふ種字(=父型)彫り職人に弟子入りする。清水さんの先輩は字を彫るときに、筆で逆字を書いてからやつてゐたらしい(小宮山さんの大日本スクリーンの連載で安藤末松氏もさうしてゐたことが知られる)のだが、清水さんは、直接けがいてしまつて彫るので、早くできるらしいかつた。けがくときは、鋼鐵を90度に折つたのを2つ重(緟)ねたやうなのに燒きを入れたの(名前があるらしいが忘れた)を定規がはりに、デプス・メーター(FeZnさんによると、いまはもう市販にない形)で縱と横とを、あらかた書いてしまふのである。さうして、底と、頭を彫刻刀で閉ぢてしまふ。種字は、逆字に彫るのだが、縱の右側の線(つまり印刷したときに左に來る)は、上も下(底、と云つていらした)もあまり丸めてはならないらしい。對して、左側の底は、丸くするさうである。右側がああなので、右も大分丸いやうなのと比べればだいぶ禁慾的な丸めかたなのだが。1945年獨立(?)し、弟子5人とともに大田區に工房を立て、受注體制に。清水さんが字をざつと彫り、それを弟子に深く彫り込ませ、清水さんが仕上げをするといふやり方で、1日10本ほど彫つてゐたさうである。註文があればなんでもやつた――明朝・ゴシック・正楷書、ハングルも――とのこと。そのころすでに種字彫り師は少なく、衰退一方であつたため、岩田に主に納入してゐた縁か、1956年、岩田に入社し母型を彫つた。岩田に這入る際に種字は已めてしまつたらしい。プロフィールでは、1971年、岩田を辭め、ふたたび獨立して、最終的に已めるのは1975年。已めたのは、需要の低迷に窮まる。2004年活字研究會――大學の先生とは清水さんの言――の要請で、歴史傳承のために種字彫刻を再開する(清水さんは已めて49年と仰つてゐたのだが、計算が合はない。清水さんの勘違ひか)。白内障に罹つてゐたのを、手術して視力がかなり恢復してゐたのもあつたらしい。最初はもう已めて久しいからできない、と斷つてゐたが、あまりに熱心なのでやつてみたら、吃驚できた、體が覺えてゐるんだねえとのことであつた。同年10月スミソニアン・アメリカ・ヒストリー・ミュージアムに種字(「鶴」「龜」)が收藏された、とのこと。そして、今日。
始まる、といふときに清水さんの左脇に陣取る――結局脇にゐただけでも二時間弱ゐたのではなからうか。一號格、三號格に「東」が彫られてあつて、仕上げをします、とのことであつた。二日前に彫つたとかいふ一號の出來上がりもあつた。彫りながら、ときをり、例の先生方がつくつてくれたとかいふ、T字型の臺に填めたルーペ(×14?18?。14はルーペに書いてあつたもの、18とは清水さん曰く。清水さんの臺は×14)で、種字を見せてくれる。感服のひとこと。どうぞ質問くださいといはれても、聞くことがみあたらない。口を出すのがたいへん失禮にあたる氣がして、まあ、誰かが口火を切ればそれまでなのだが、しばらく名人藝にひたる。弟子に云つて――ここら、或は彼の母が來て氣づいたのだが、彼はギャラリーの人間ではなく、清水さんの弟子であつたのだ。彼は、去年からなにやら熱心に見に行つてゐたらしい――3.5ptの活字を研がせる。「あてる」と云つてゐたか。その、「あて」たものと仕上げた後のを、清水さんの臺で見せてくれた。3.5ptは、アメリカン・ポイント格で、約1.230mm。楊枝の頭ほど、それよりか一囘り小さいのかもしれない。新聞などで7ptの振り假名に使ひ、今日は片假名を彫つていらした。それは小さいので、こんな質問が頻出した――私がしたのではないのだが、囘りに張り付いてゐた間、しばしば聞いたのである――「大きいのと小さいの、どちらが難しいのですか?」。答へは「大きいはうが難しい。といふのも、小さいのはごまかしが效く――顯微鏡で見るわけでなし――だけど、大きいのは誰が見ても、惡いとわかつちやう」とのこと。若い人、とくに女性が多いとは清水さんの感想。實際、少なからず。赤子連れの女性もゐたほど。一號格を彫るときに使つてゐた彫刻刀は、市販のものに燒きをいれたものださうで、それを自己流に研いで使ふ。清水さんのものは、前へも後ろへも彫れるやうに、普通は一直線に斜めになつてゐるものが、途中で折れて山のやうな形をなしてゐた。刃を指や爪で止めるやうに彫るのであるが、今日は雨のせゐか調子がわるいらしく、お弟子さんのいふところには受ける指のはうが濕氣で柔らかくなるからだらうとのことだが、何囘か刃を研ぎなほしていらした。そのとき、刃を立てて研ぐのでなぜだらうと思つてゐたのだが、さうしないで、鋭いままでやると、「鉛に食ひ込」んでしまふさうで、それを防ぐためにいい具合に刃を潰してゐるのであらう。種字は、活字よりも錫の含有率を多めにしてあるさう。理由は失念。硬くするため、だつたか。種字が置いてあつて、6000圓近くから18000圓近くの賣値なのだが誰も買はないで、みな眺めてゐるだけだつた。初號の「龜」の字が3本くらゐあつたのだが、どれもバランスのとり方が違つて興味深かつた。初號の「東」2本も大分違ふので、聞いてみたが、「まだ仕上げしてゐないから」と云つて結局詳しいことは聞けなかつたが。
2時ごろになつて、府川さんが到着なさる。3囘目にして、やうやく聲をかけるのに成功する。それから少し遲れて、大熊さん。岡澤さんがいらつしやるとのことであつたが、結局ギャラリーにゐる間にはお出でにならなかつた。込んできて清水さんから離れて待つてゐる間に、Yのピンマークは晃文堂などと豆知識を得つつ、96ptの巨大活字を見逃したことを悔やみつつ、FeZnさんがお歸りになるとのことで次囘こそは資料を忘れません――「『聚珍録』紀念セミナー」資料が餘つてゐたのを差し上げる積りだつたのである――と誓ひつつ、諸事情もあり、印刷博物館へ、府川さんと大熊さんと一緒に行くことになり、ロゴス・ギャラリーを離れた。まだ2囘目の直彫りは始まつてゐなかつた氣がする。
印刷博物館では、主目的ではないのだが、明治19年9月改正の六號總數見本帳の複寫を頂戴することができた。どれですか、と持つてきた資料で大正15年の7pt半や大正8年の五號の總數見本帳もあつて、本物が手に取れただけではなく、いろいろ興味深いことを見出せたのは、この幸運な日を締めくくるにふさはしくはなからうか。大正15年の7pt半のかなは、『秀英體研究』に掲載された大正末期の秀英の六號とかなり似てゐて、なんだか不思議であつた。大正8年の五號の總數見本帳には、四分の三六號型なる奇形が掲載されてをり、それの「ゑ」が、三號型から一號型に變つてゐたのであつた……と思つたが、貰つた資料も一號型であつた。明治36年『活版見本』が特異點なのか。ううむ。
とんでもない一日であつた、と思ふ。
21:23
——貪欲と嫌惡と迷妄とを捨て、結び目を破り、命を失ふのを恐れることなく、犀の角のやうにただ獨り歩め
(中村元譯『ブッダの言葉 スッタニパータ』74詩、岩波書店、1984)
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