文字が、そもそもの初義を體現してゐるといふことは、どういふ意味を持つか。「法」の字形解釋を巡る藤堂説と白川説は、文字學的正統を爭ふだけではなく、文字の呪性の強度の解釋を巡る爭ひでもある。藤堂説は、字は「何々といふ〈こと〉は、すなはちかういふことである」と見、白川説では〈こと〉をそのまま象徴化したと見る。古代の神聖王の時代にあつては、〈こと〉を、しかも、より純粹に、〈こと〉そのものを描くやうな形で文字化するといふことは、文字そのものの持つ呪的性格は、たとへ三千年、四千年のときを經てもなほ我々に強く迫る。しかし、その間に「何々といふ〈こと〉は」といふ緩衝を入つてゐるとすれば、そのやうな〈こと〉の純粹性は一切ないのであり、線條記號は、必ずしも古を保存する必要がない。兩者の違ひは、このやうなことなのであると理解する。
22:14
——貪欲と嫌惡と迷妄とを捨て、結び目を破り、命を失ふのを恐れることなく、犀の角のやうにただ獨り歩め
(中村元譯『ブッダの言葉 スッタニパータ』74詩、岩波書店、1984)
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