由紀は一歩登るたびにサチの足の幻影を見た。由紀のリズムとサチのリズムが一致して薄暗い階段を木靈した。階段が終つて屋上のドアの前に立つて、取つ手に手をかけた。さびてざらざらしてゐるのと、冷たいのとで心地が惡かつた。取つ手も扉も重かつた。扉さへも私に逆らふのか。
屋上には誰もゐなかつた。コンクリートを葺いただけの屋上には、ところどころに龜裂が入り、そこから草が生えてゐた。縁には手すりがあつた。これもさびてゐて緑色のペンキがわづかに殘るだけだつた。あの事件から付け直した跡はない。
わかる。愛でていつた花。手すりの前に巡り歩いた道のり。手すりに殘つた手と足の跡。何もかもが解る。
由紀は段を下りて迷ふこともなく屋上の眞ん中の草の前へ行き、しやがんで撫でる素振りをした。そのとき不意に由紀はこのときサチはどんな顏をしただらうと思つた。すぐに思ひついたのは、儚げに笑つたのであらう、といふことだつた。しかし、何もかもを憎んだ目で見たかもわからない、と思つた。わからない。由紀は立ち上がり、空を見た。羊雲が群れを成して流れていく。サチは、この空を見ただらうか。
16:44
——貪欲と嫌惡と迷妄とを捨て、結び目を破り、命を失ふのを恐れることなく、犀の角のやうにただ獨り歩め
(中村元譯『ブッダの言葉 スッタニパータ』74詩、岩波書店、1984)
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