中央公論を偶々見たら、「復讐はなぜ許されないのか」なる特集が組まれてをり、そこを讀んでみたら、その中に『復讐はなぜ許されないのか』といふ文があり、復讐が認められないのだから、政府が統治者として遺族の怨みを晴らすべきだ、云々。
コナン好きが見る、といふのでもないと思ふので明かしてしまふのだが、今作では、怨恨の相手が、怨恨の原因になつた事件を再現するといふ動機であつた。ただし、これは先に擧げた文の、「歴史的に認められてきた復讐」とはべつものの怨みで、單なる「私怨」である。
まあ、怨み自體は性質をそんなに異にするのでもないのかもしれないが、しかし復讐のなされ方は全く性質が違ふのである(因みに、現代の復讐は多分に「私怨」の實現である)。
「歴史的に認められてきた復讐」とは、要するに、尊い「犧牲」なのである。復讐される相手は、「穢れ」を一身に負つて淨化を齎す。ところが、「私怨」の實現は穢れを増すばかりか、終りのない復讐合戰へと縺れ込むだらう。忠臣藏にはなりえない、といふことである。
コナンといへば、相變わらず年齡設定がをかしいですね。どうかなあと思ふ。相手を思ひやる氣持ち。しかし、これは顏が見える範圍にしか通用しない論理だなあとなむ。
19:18
——貪欲と嫌惡と迷妄とを捨て、結び目を破り、命を失ふのを恐れることなく、犀の角のやうにただ獨り歩め
(中村元譯『ブッダの言葉 スッタニパータ』74詩、岩波書店、1984)
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