芥川の『羅生門』の感想を、何をどうしたのだか、最終的に「人間はもうだめだ」に結びつけた人がゐると聞き、羅生門で終末論を云々したらどうなるのだらうと思つてやつてみることにした。
羅生門では、人間はもう駄目だ、と判つてゐる時代のある出來事を描いた、と云つても、間違ひではない。すると、終るのは具體的に貴族が頂點に立つ社會であり、それを論じればいいのだらうかと思ふのだが、それではおもしろみがないので却下する。であると、羅生門をあの時代から切り取つて、現代的な問題を設定しうる場面を探さなくてはならない。頭の隅にこの暴虐を盡くした試みへの非難を追ひ遣つて、再讀すると、「どうにもならない事を、どうにかする爲には、手段を選んでゐる遑はない。」「選ばないとすれば」「『盜人になるより外に仕方がない』」軟弱さ、「下人の心からは、恐怖が少しづつ消えて行つた。さうして、それと同時に、この老婆に對するはげしい憎惡が、少しづゝ動いて來」る都合のよさ、「成程、死人の髮の毛を拔くと云ふ事は、惡い事かも知れぬ。しかし、かう云ふ死人の多くは、皆、その位な事を、されてもいゝ人間ばかりである。」などと平氣で云ふ極惡非道さ、などなど。拔いても拔いても、倫理的な問題にしかならないのだが、作品に沿つて、終末論へ結びつけるのは私にはしかねるといふ結論がさつきから頭から離れないので、それに从ふ。
22:16
——貪欲と嫌惡と迷妄とを捨て、結び目を破り、命を失ふのを恐れることなく、犀の角のやうにただ獨り歩め
(中村元譯『ブッダの言葉 スッタニパータ』74詩、岩波書店、1984)
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