許す、と言ふことに就いて書き散らしてみる。書き散らすなので理解できなくてもあなたに責任はございませんが頑張つてみてくださいと無責任に云々。
さて、許すと謝ると言ふ行爲は和解の爲に行はれるが、和解とは同じ共同體に暮らすものとして對立を止めようといふ和解と、謝る側が許す側に對し「罪」を認め「罰」の軽減を求めてそれを許す側が認めるといふ和解がある。ただし、後者は前者から獨立してゐるとはいへないだらう。謝る側が共同體がそれ相應と認める損失を蒙つてゐれば許す側の心情の問題は少々置いてけ堀にされてもそれは仕方のないことだらう。
そして、許す側が心から謝罪を受け入れることは可能なのか? たとへば、よくドラマの主題になることとして「父と子の和解」といふものがある。しかし、それは互ひの罪云々の和解ではなくて、仲違ひを續けてゐたことによつて「罪」の許しよりも「仲違ひ」の解消へ動き「罪」には目を瞑つたとは云へないか?
被害者(或はその家族)が加害者からの謝罪に「そんなのでは足りない」と云ふ事がままある。しかし、彼らの心に罪を許すつもりだとか、自分たち相應の損失を向かうが蒙つてゐるかどうかに就いて考へる餘裕だとかがあるのだらうか? 被害者救濟は大事なことだが、このことについてどうも被害者側に疑念を常々思ふ。
21:18
——貪欲と嫌惡と迷妄とを捨て、結び目を破り、命を失ふのを恐れることなく、犀の角のやうにただ獨り歩め
(中村元譯『ブッダの言葉 スッタニパータ』74詩、岩波書店、1984)
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