友人が、私が正假名を使つてゐるのを讀んで、讀めりや良いのに、何でそんなのを使ふのかと云ふ。しかし、と思ふ。(言はれたときは碌すつぽ反論しなかつた。)
正假名はそんなに讀辛いだらうか。慣れてゐないを、そのものすべてに敷衍してやゐないだろうか。ものすごく端的に云つて仕舞ふと、現代かなづかひは其處にある文字がどの語かを判別するより、讀むことを優先してゐて、正假名はどの語かを判別するのに長ける。さう考へれば、正假名と現代かなづかひになれた人が現代かなづかひのものより正假名を讀んだはうが理解が少し早い気がしてならない。少しか、大分結果が違ふかは知らないけれども。
23:22
——貪欲と嫌惡と迷妄とを捨て、結び目を破り、命を失ふのを恐れることなく、犀の角のやうにただ獨り歩め
(中村元譯『ブッダの言葉 スッタニパータ』74詩、岩波書店、1984)
DiaryMaker1.02b
Script written by れん©
Mail me for annul@karpan.net
annulをkzhrに@の後ろにmail.をつけてください。
著作權で保護されてゐる著作物は著作權者の許可なく、私的な範圍を超えた複製をしてはなりません。
Copyright some right reserved.
この日記のKzhrの作品については、
クリエイティブ・コモンズ・ライセンス(by-sa 日本)
の下でライセンスされています。