今日學校の歸り、書店に立ち寄つて、解體新書neoといふものを讀んだ歸り道にふと、作家になるには、自分の作品を誰かに「好いて」貰はねばならない、でも、どうしたら「好いて」もらへるのだらうと考へた。
よく考へたら不思議な話で、なんか、いい、そこから始まつて、作家は成り立つのである。藝術家は死後名を上げると言はれたほどの人だつて、誰かが好いて、今の知名があるのだらう。ぢやあ、私は…と思つてしまふ。
誰か、もし萬が一億に一つ私の作品を好いて下さる方がゐたとして、果たしてその人は、私の作品をどういふ風に好いてゐるのだらう。氣になつて仕方がないし、氣にしても仕方がない。
しかし、どういふ風に好くかといふのはそもそも意味があることだらうか。
さう思ふと、私は科學的にかういふものを捕らへてみたくなつて、仕方がないのだ。まあ、ミステリーを作りたいと思つた場合、讀む側から見て…と言ふのを考へないと、トリックとか伏綫とか張れないけども、他のだつて、さういふことを考へて害はなからうなあとも思ふが、何せ私は、自己滿足で小説を書くからいけない、全く。
22:15
——貪欲と嫌惡と迷妄とを捨て、結び目を破り、命を失ふのを恐れることなく、犀の角のやうにただ獨り歩め
(中村元譯『ブッダの言葉 スッタニパータ』74詩、岩波書店、1984)
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