老人日記誰も書いてくれないなあ。宣伝したのに来ないと、随分物悲しい。
ところで、今日の朝日の投稿欄にこんな投稿がありました。乾燥を織り交ぜつつお送りしたいと思います。
山本 颯太郎
国民として成熟していくとはどのようなことなのかと、和歌山・カレー毒物混入事件の判決を見て考え込んでしまった。
日本に死刑と言う罰則がある以上極刑は当然と言うことで、被疑者に対する私たちの憎しみの感情は処理できる。しかし、死刑制度のない国で同様の事件が起きた場合、その国の人々は憎しみと言う悪感情とどう向き合い、処理しているのであろうか。
ちと待って。あなたはいつから被疑者に憎しみを覚えるようになったのでしょう。都合のいいお言葉を報道ぐらいで他人に適用しないで下さい。全くユダヤ人弾圧と程度が同一です。
「目には目を」というような報道の論理を容認せず、終身刑のような、やわらかな極刑で国民を納得させるには、よほど国民の側に人間としての成熟度がなければならないだろう。
質問その2。あなたにとってやわらかでない刑とはなんなのでしょう。痛めつけたければ私刑をどうぞ。
死刑制度のない国にも、以前は死刑があったに違いない。それが突然変異でなく自然な過程で廃止に至ったのであれば、論理的思考が悪感情をコントロールできると言うことの見事な成果である。「人を殺すな」と言う理念に近づくために、その国の人々は並々ならぬ努力をして来たに違いない。
確かに死刑制度廃止には並大抵の運動ではすまなかったでしょう。どこの国にも被害者然する人はいますから。今でも死刑復活を唱える人は沢山いますしね。でも、まず考えていただきたいのは、だからなんなのかと言う事です。死刑にしようとする人は一体あなたに何をしたのかと言うことです。心近しい人を殺された?僕だったら、そんな人を殺されたら、信じられない気持ちをどうにかするのに精一杯で、犯人がどうのこうのなんかどうでも良くなるでしょう。どうすることもできない現実に打ちのめされて、周りの事なんかどうでも良くなるでしょう。失ってからはじめて存在の自分に与える影響に気づくことは良くあることだそうですが、ただいえるのは、赤の他人が死んだって、結局は自分に何の影響も及ぼさないことぐらいです。
それでもあなたは知らない人を殺した犯人に憎しみをもてますか。
14:17
——貪欲と嫌惡と迷妄とを捨て、結び目を破り、命を失ふのを恐れることなく、犀の角のやうにただ獨り歩め
(中村元譯『ブッダの言葉 スッタニパータ』74詩、岩波書店、1984)
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