道ばたで話し込んでゐる知らないひとが、何語で話し込んでゐようともそれは自由である。だが、そのなかでつかふ言語について、その言語から完全に自由であることはありえない。
以上の前提に立つて、古文版ウィキペディアの現實的な問題點を考へれば、文語を習得言語として通用せしめる優秀な教師の不在である。ならば、研究會でも設けて研究訓練するばかりであるが、文體・文法は假名文にしたがふことにしていいとしても、語の問題は厄介である。文法は訓練さへすればどうにかなるが、語や文體については時代的變遷やセンスの問題が含まれてくる。たとへば、あらたしとさいつごろがひとつのテキストに兩方とも登場することは考へられない。また、いくら傳はるといつても、たべるべからずなどといふのは、センスがない。これをおしへるのは、可能なんだらうか?(可能なら教へてほしい)どこまで外來語を排してしまふのか、だれにもわからない。辭書をつくるのであれば、用例が完全なのがよい――現代語譯と、いつの時代のことばかも添へて。まとまるわけもないのでこれまで。
一週間ぶりに學校にいく。船をこいでしまつた。
23:55
——貪欲と嫌惡と迷妄とを捨て、結び目を破り、命を失ふのを恐れることなく、犀の角のやうにただ獨り歩め
(中村元譯『ブッダの言葉 スッタニパータ』74詩、岩波書店、1984)
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