Diary/ + PCC + — HIMAJIN NI AI WO. Love Idle

2007年10月12日(金)

習得言語としての文語

道ばたで話し込んでゐる知らないひとが、何語で話し込んでゐようともそれは自由である。だが、そのなかでつかふ言語について、その言語から完全に自由であることはありえない。

以上の前提に立つて、古文版ウィキペディアの現實的な問題點を考へれば、文語を習得言語として通用せしめる優秀な教師の不在である。ならば、研究會でも設けて研究訓練するばかりであるが、文體・文法は假名文にしたがふことにしていいとしても、語の問題は厄介である。文法は訓練さへすればどうにかなるが、語や文體については時代的變遷やセンスの問題が含まれてくる。たとへば、あらたしとさいつごろがひとつのテキストに兩方とも登場することは考へられない。また、いくら傳はるといつても、たべるべからずなどといふのは、センスがない。これをおしへるのは、可能なんだらうか?(可能なら教へてほしい)どこまで外來語を排してしまふのか、だれにもわからない。辭書をつくるのであれば、用例が完全なのがよい――現代語譯と、いつの時代のことばかも添へて。まとまるわけもないのでこれまで。

一週間ぶりに學校にいく。船をこいでしまつた。

23:55

a(半角)と入れてください。
 
最近の日記
過去ログへの誘ひ:
2002
2003
2004
2005
2006
2007
2008
2009
2010
2011
2012
2015