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2007年1月4日(木)

破壞と歴史

史料の破壞といふのはなにをもたらすだらうか。破壞といふのはさうされる側からの見方で、人に壞されようが灼熱の火にやられようがかはらない。缺落した史料には複製品がとつてかはる。すなはち類似するものからの連想的複製であり、身近なものとしては、複寫史料による圖書館の充足がそれである。連想的複製は極めて廣い範圍にもちゐられ、複製もとの特性(或は個性)を吟味しきらずになされることもしばしばである。卑近なたとへをもちゐてみると、ある人を知つてその親を想像するのにそのある人とさしてかはらぬ人をおもひ浮かべるのが、似たやうなことだらう。

しかし記録についてはどうだらうか。グーテンベルクにせよ、キリシタン版の工房にせよ、築地活版にせよ、それらに遺された記録はその史料の量に比して慰みにもならぬほどである(そしてグーテンベルクはそのためにその出版物が確定されかねてゐる)。一般的に、記録はオリジナルだけでしか存在しないことが少なくない。もちろん、ほかの史料からの連想は有效であるが、史料として殘り得ないものを書いた記録は、破壞されればそれはもうとりかへしがつかないといふことであつて、たとへば人の記憶、行動がさうである。

破壞の憂き目にあつてもう知ることが出來ないキリシタン版の營爲へちかづくことに、國字本大字本の斜形活字の分析はどれほど有效だらうか。小字本においても大字本においても平假名活字は複數種の使用がありなんらかの原則を崩すわけではない。しかし、この特異な存在――ミスだとしても、檢査を通り拔けたミスである――をいかやうに解釋すべきか。意圖的に檢査を通したとしかおもはれないこの誤りは、山口説を活字の鑄造失敗ではなく母型の鑄造失敗へ導いたものだらう。しかし、普遍的にはもちゐられてゐないといふことが、なんのためにといふことを想像させるのを妨げる。

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