2005年9月23日(金)
「非は非余ともいわれるすき櫛の形 (p.14)」
字通には出てゐない。Googleの檢索には、白川信者(苦笑)と見られるウェブサイトに見出すことができる(SUMITOMO e-Medicine )。
「文とは内なるもののあらわれである。天にある秩序は天文であり、人のうちにある先験的なものは人文となる。それならば文字もまた、天地間の万象がみずからをあらわす姿でなくてはならない。 (pp.16-17)」
そしてそのあらはれたものの美しさはいかほどか。しかし、この美しさは神への意思にささげられてゐるものだから、その意思がなくなつたときそこへ入り込む意味は、意思といふしがらみから斷ち切られて、抽象一方へ進み、アルファベットの如く「死ぬ」だらう。でも、斷ち切られてから後のことしか知らない我々の文字に、どうやつて舊きを懷ひださせたものか。その意味を懷ひだしたとき、地祇へ漢字は再びひれ伏すか?
「文は記号の総体である。内なるものが外にあらわれるものをいう。 (p.19)」
あまり關係がないことだが、p.19には二種類の「文」の字形がある。そのうち、11行目頭に現れる「文」が岩田の字形ではなからうかと想像する。――では、ほかの文字はどこのものだらうか。
「アフリカのパルパ族は三つの名前をもつといわれている。第一は「内なる名」、また「生の名」「存在の名」とも呼ばれるもので、これは秘密にされる。第二は通過儀礼のときつけられるもので、年齢や身分を表示する。第三は任意に選ばれた呼び名であるが、これは自我の実体とは何らかかわりのないものである。 (p.26)」
「四人目の子供は、名前を持っている。初潮をみたときに、私は四人めの子供に、その名前を教えた。名前を、軽々しく声に出してはならない。」「一人めの子供も二人めも三人めも、名前を持っていない。人の名は持っているが、ほんとうの名前は持っていない。(川上弘美「海馬」『龍宮』文藝春秋、2002、p.192)」
名前はどこからやつてくるか?
註記なきは孰も白川静『漢字百話』(中央公論新社<中公新書500>、1978)よりの引用。
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六塵悉ク文字 (fukaha さん) 05 9/23 10:35
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——貪欲と嫌惡と迷妄とを捨て、結び目を破り、命を失ふのを恐れることなく、犀の角のやうにただ獨り歩め (中村元譯『ブッダの言葉 スッタニパータ』74詩、岩波書店、1984)
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