彼ら(無性)は見てゐてイタイ、と聞く。肉體的な痛みではなく。しかし、このイタイといふのは、なんなのだらう。何となく意味するところを理解できないでもない。寒々しいと言ひ換へれば、なほ含意が傳はつてこよう。
イタイの使はれる風景。
1. 行爲者はその行爲について、至つて非常識でかつ至つて生眞面目である
2. それを見てゐるひと(=常識人。その行爲者や、行爲への關與の度合はあまり深からぬやうだ)から見て、行爲者の考へや、その行爲は諸事情で噴飯物である
3. なので、(指差して)イターと云ふ
莫迦ぢやないか、と云つてゐることについて、イタイを使ふひとびとは一致してゐるやうであるけれど、「云々なのでその行爲或は行爲者はをかしい」ではなく、なぜ、イタイなのかと思ひめぐらせば、「あまり關はりあひたくはないのだけれど、でも、仲間内には報せて、一緒に莫迦にし合ひたい」などといふ「不健康」な考へが混ぢつてはゐやしまいか? 少なくとも、積極的にその行爲者にその「變な」理由を教へやうとする積りはないといつてよからう。
やり切れない、としか云ひ樣がない。
22:16
——貪欲と嫌惡と迷妄とを捨て、結び目を破り、命を失ふのを恐れることなく、犀の角のやうにただ獨り歩め
(中村元譯『ブッダの言葉 スッタニパータ』74詩、岩波書店、1984)
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