かなが、しませうとあつたら「しましょう」と現代仮名遣いに對應すると氣づかない場面がどれだけあるだらう? かうしようが「こうしよう」に對應すると氣づかない場面がどれだけあるだらう、と考へていけば、別にコミュニケーションに支障が出るわけでもなく、正かな遣ひを強制せんとするわけでもないのを、排除する理由はないやうに思へる。漢字に就いては、手で書かない漢字をもコンピュータ上で漢字にしようとするのを止めるならわれわれは案外正字を見る場面が多いのであつて、これもまた支障にはならないのではなかろうか。無論、手で書かないような漢字まで漢字にして仕舞ひ、それによつてその字を知らない人が讀めない、と言ふ問題があるが、それは常用漢字でも起こりうるから、正字の問題ではないはずである。
要するに、氣に食はない以上の理由は正字正かな嫌ひは作れないのではなからうか。私はその日のIMEのユーザ辭書の具合ですべてが決まるので(日記は正字正かなで書く樣に苦勞してゐる)、一番迷惑かもしれないとは思ひつつ。
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——貪欲と嫌惡と迷妄とを捨て、結び目を破り、命を失ふのを恐れることなく、犀の角のやうにただ獨り歩め
(中村元譯『ブッダの言葉 スッタニパータ』74詩、岩波書店、1984)
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