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2008年1月7日(月)

授業設計についておもふこと

(講義とゼミナールの上位概念をしらないので假に授業と云つておきます。また、よそを知らないので私が關係することを中心に考へてゐます。)現代日本學關係の授業であれば、とりあへずわかるので、教員も學生に參加を求めやすいし學生も參加しやすくインタラクションが成立する。この最良例が現代語(とりわけ若者ことばといはれる類)の研究で、まだ記述も十全になされてをらず、それ以前の研究に(實際の使用者からみて)問題があることがおほく、また形式に則つて論述するだけでこれまでにない深い思索を得られたりして人氣が出る。けれど、たとへば近代以前・ひろい視野が求められるものなどディシプリンがとはれるものになると、ほとんどの場合、參加者の水準差に沿つて高いところ(教員)から低いところ(學生)に知識の移入がなされるので、インタラクションが起こるのは減つてき、教員が發言をうながして學生がものをいふことはまれである(そもそもかなり寢てるが)。講義に關係することでレポートを書けといはれると、ただとまどふ(なにがなににかかはるの? 書寫山と京の距離感について、とか、だめ、ですか?(謎))。こと古典の場合、大學前での古文教育がなつてない、といつても、現代語も英語も教育できてゐないといふのが通説であるので古文はいちばん最後にくるのはなかば自然のなりいき。大學入學時の補習を、と云つても、アイヌ語・ロシア語(+中國語?)など最終的に持つてゐるべき「教養」が幅廣いのにこと古典語の優遇を主張するのも無理がある(英語はなぜよいのか!)。

4年間は短い。そのなかでは、結局は文書(企畫書、報告書、etc.)の書き方教室が精々なのかもしれない(『MLA英語論文の手引』にもさう書いてある)。アカデミックな分野に進むひともゐるかもしれないのだから、專門教育だつて疎かにはできないし、研究分野の存續のためにも、最適な授業設計があるならば探しもとむべきである。テクストによりそひつつしかし方法論をうちたてることであたらしいテクストをもより正確に讀むことができる、といふのは、入門レヴェルではとくに重視したはうがよいやうな素人かんがへもする。もちろん、文藝學部のやうになにかを書くことについて實踐するコースがあつてもよいかもしれないが。いづれにせよ、なんとなく普遍的な、あるいは古典的な手法を提供できるつよみはあつてよいだらう。

けふ借りたもの。
森岡健二・宮地裕・寺村秀夫・川端善明『講座日本語学』6巻「現代表記との史的対照」、明治書院、1982.5。

けふの買物。
池澤夏樹『クジラが見る夢』七賢出版、1994.7。新潮文庫6112、新潮社、1998.4。
―――『憲法なんて知らないよ』集英社文庫、集英社、2005.4。
北杜夫『どくとるマンボウ青春記』改版、中公文庫、中央公論社、1990.6。

23:55

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