著作權を伸ばして、利益を得る人と、損害を蒙る人とを考へてみよう。
利益を得る人。昔のものを食ひ扶持に生計を立ててゐる企業。
損害を蒙る人。著作權の繼承がはつきりしなくて、見る人がゐながら作品を世に送り出せない死んだ作者。著作權が切れることで自由に作品を使へるのを先延ばしにされた「社會」。
自由に使へることの意義について、われわれはどの程度かんがへてゐるだらう? 世界はオリジナルだけであつたら味氣がないのだ。もつと互いにやりあひたまへ(「人生に相渉るとは何の謂ぞ」など忘れてしまへ、あんなの)。
著作權は著作者(個人)の死後、基本的に遺族に移る。彼等が生きていくために必要だ――との意見。しかし、遺族は所詮遺族で、トールキン關連など、權利關係が複雜すぎのうへに、テングワールなどの美しい文字は、なんと、彼等に許可をもらはねば勝手にウェブで使ふこともできない(幸ひにも許可を得たフォントが公開してあるので個人としては使ふことができるが、しかし、商賣などには使へない。ただの文字ではないか。文字を書くのに許可がいる不思議を考へたまへ。文字を作るにもお金がかかる印刷ではないのだ)。音樂のコピーにしろ、さうなのである。違法だつたコピーが著作權が切れれば違法でなくなるが(違法だつた時分が打ち消されるわけではない)、伸びれば、いつまでも違法である(そりや、いつかは切れるはずだが、アメリカではミッキーマウスの著作權がいつまでも切れない)。少しミッキーの形が入つただけでディズニーは訴へるといふ。狂つてゐるとしかいひやうがない。文藝はどうか。パロディーは著作權侵害である。また、二次創作も基本的に危ないだらう。結局、どの分野も創作に携はるかぎり、危ないと覺えておくのが基本である。
著作權の延長は自由の制限につながる。それも不當な(何囘もいふとほり、70年は長すぎる)。そんな法案は廢案にしてもらはねば、困る。困るから、今かうして抗議文を書いてゐる。
23:01
——貪欲と嫌惡と迷妄とを捨て、結び目を破り、命を失ふのを恐れることなく、犀の角のやうにただ獨り歩め
(中村元譯『ブッダの言葉 スッタニパータ』74詩、岩波書店、1984)
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